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概要

古典ラテン語: Lucius Artorius Castus

帝政期古代ローマの軍人で後にダルマチア属州(現クロアチア)の行政長官を務めた。

騎士階級(エクティス)であることは明らかだが出身地は不明。イタリア南部カンパニア説とダルマチア属州説がある。

ルキウス・アルトリウス・カストゥスに関する主な情報はクロアチア南部のスプリト−ダルマチア郡ポドストラナ(当時はローマ帝国ダルマチア属州の首都サロナだった場所)で発見された石棺による。また近年では彼自身が書いた時の皇帝コンモドゥス宛の手紙がアメリカ・メリーランド州ボルモチアのウォルターズ美術館で復元。トーマス・ブルックサイド氏によって「DE BELLO LEMURES」というタイトルで英訳、出版されている。

ヘロディアヌスが残した記録に185年にアルモニカに遠征した名称不明の将軍が存在するが、上記の手紙は185年にアルモリカで起きた対コンモドゥス帝への反乱を鎮圧した後について綴ったものである(手紙と書いているが寧ろ一人称視点の小説に近い)。

アルトリウス氏族の名前の由来はエトルリア語かメッサピア語ないしケルト語由来とされている。この氏族名はマイナーであるが元老院階級など貴族階級の者が数名確認できる。

経歴

石棺に書かれた彼の経歴は以下の通り

シリア属州に駐屯していた第三軍団ガッリカの百人隊長

第六軍団フェラッタ(地域・階級共に同じ)

パンノニア属州・アクインクム(現ハンガリーの首都ブタペスト)に駐屯する第二軍団アディウトリクス百人隊長

下モエシア属州(現ブルガリアルーマニア)に駐屯する第五軍団マケドニカ百人隊長後に筆頭百人隊長

ローマ海軍・ナポリ湾艦隊隊長

ブリタニア属州・エボラクム(現イングランド・ヨーク)に駐屯する第六軍団ウィクトリクスの隊長で二つの部隊を率いていた。

軍を退役後はダルマチア属州・リブルニアの行政長官となった。

人物

第六軍団ウィクトリクス在籍時には同軍が待遇完全を求め当時のブリタニア属州総督のペルティナクスに対して何度も反乱を起こしたがカストゥスはローマへの忠誠を貫いて反乱には加わらなかった姿勢が評価された事でペルティナクスによって隊長(Dux、2つ以上の軍団の指揮権を有する大将)へ昇格し、後にアルモニカ(ガリア・ルグドゥネンシス属州の一部、現在のフランス・北ブルターニュ)へ遠征しその先で反乱の鎮圧に成功した。

サルマタイ人との関わり

当時は現在のスコットランドに住んでいたカレドニア人らへの防壁として122年に建てられたハドリアヌスの長城の監視・警備を行なっており彼が率いた部隊の中にはイラン系半遊牧民族サルマタイ人の一派であるイアジュゲズ族も含まれた。

イアジュゲズ族はサルマタイ人の中でもドナウ川〜ドニエプル川周辺に住んでいた民族だが175年にマルコマンニ戦争でマルクス・アウレリウス率いるローマ軍に数回に渡る戦いの末に敗北した事で8,000人の重装騎兵がローマ帝国へ徴兵、その内5,500人がブリタニア属州にて500人のグループに分かれハドリアヌスの長城付近に配置された。

ちなみにこの際イアジュゲス族の捕虜となっていた10万人のローマ兵も解放されたが、この数は戦争の名前になっているマルコマンニ族のそれを遥かに上回っている(マルコマンニ族に捕らえられた捕虜は3万人)。故に歴史家カシウス・ディオ曰く「マルコマンニ戦争ではなくイアジュゲス戦争と呼ぶべきだ」。

なお、イアジュゲズ族に対する勝利を決めた冬に行われた氷上のドナウ川での戦いにおける奇策はカストゥスが提案したものではないかという意見もある(リンダ・A・マルカー氏はカストゥスがサルマタイ人ないしイアジュゲズ族に対して特別な知識があった可能性を指摘しており、実際に彼はイアジュゲズ族の生息域と隣接したパンノニア属州や下モエシア属州に駐屯する部隊に所属した経験がある)。

彼等は25年の軍務期間を終えて退役軍人となった後ローマ市民権を獲得し、ローマ主要の騎兵駐屯地であるブレメテンナクム・ウェテラノールム(現イングランド・ランカシャー南東部リブチェスター)にあった居留地に定住した。

アーサー王との関連性

ルキウス・アルトリウス・カストゥスがアーサー王のモデルでは、という学説は1924年ケンプ・マローン氏よって発表された。

彼は「アーサー」が「アルトリウス」を語源としていると考えたがこの説はしばらくの間支持されなかった。

しかし1975年にドイツの歴史家ヘルムート・ニッケル氏は以下のことを根拠にカストゥスと彼が率いたイアジュゲズ族補助騎兵軍団がアーサー王及び円卓の騎士に影響を与えたと主張した。

・イアジュゲズ族補助騎兵軍団は赤いドラゴンの旗を持っていた

・5世紀時点でイアジュゲズ族の子孫がブリタニア属州に存在した

・アーサー王と紀元前4世紀にサルマタイ人に逐われたスキタイ人(両者共にイラン系騎馬民族で習俗もよく似ている)の末裔とされるオセット人の伝承が類似している

更に後年C・スコット・リトルトン氏やリンダ・A・マルカー氏も上記2つの伝承に於ける類似点(剣の返還の場面など)を指摘し(詳細は2人の著書「アーサー王伝説の起源 スキタイからキャメロットへ」を参照)、著書ではブリタニア属州にいたイアジュゲズ族が指導者の称号として「アルトリウス」を名乗り、後に「アーサー」という名前の由来となったとしている。

実際に退役して市民権を得たイアジュゲズ族兵士の中にはルキウス・アルトリウス・カストゥスや嘗て自分達を破ったマルクス・アウレリウスの名前を家名として用いる者もいた。

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