概要
古典ラテン語: Lucius Artorius Castus
帝政期古代ローマの軍人で後にダルマチア属州(現クロアチア)の行政長官を務めた。
ルキウス・アルトリウス・カストゥスに関する主な情報はクロアチア南部のスプリト−ダルマチア郡ポドストラナ(当時はローマ帝国ダルマチア属州の首都サロナだった場所)で発見された石棺による。また近年では彼自身が書いた時の皇帝コンモドゥス宛の手紙がアメリカ・メリーランド州ボルモチアのウォルターズ美術館で復元。トーマス・ブルックサイド氏によって「DE BELLO LEMURES」というタイトルで英訳、出版されている。
アルトリウス氏族の名前の由来はエトルリア語かメッサピア語由来とされている。この氏族名は歴史上はマイナーであるが何人かは元老院階級など貴族階級である。
経歴
石棺に書かれた彼の経歴は以下の通り
シリア属州に駐屯していた第三軍団ガッリカの百人隊長
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第六軍団フェラッタ(地域・階級共に同じ)
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パンノニア属州・アクインクム(現ハンガリーの首都ブタペスト)に駐屯する第二軍団アディウトリクス百人隊長
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下モエシア属州(現ブルガリア−ルーマニア)に駐屯する第五軍団マケドニカ百人隊長後に筆頭百人隊長
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ローマ海軍・ナポリ湾艦隊隊長
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ブリタニア属州・エボラクム(現イングランド・ヨーク)に駐屯する第六軍団ウィクトリクスの隊長で二つの部隊を率いていた。
軍を退役後はダルマチア属州・リブルニアの行政長官となった。
人物
第六軍団ウィクトリクス在籍時には同軍が待遇完全を求め当時のブリタニア属州総督のペルティナクスに対して何度も反乱を起こしたがカストゥスはローマへの忠誠を貫いて反乱には加わらなかった姿勢が評価された事でペルティナクスによって隊長(Dux、2つ以上の軍団の指揮権を有する大将)へ昇格し、後にアルモニカ(ガリア・ルグドゥネンシス属州の一部、現在のフランス・北ブルターニュ)へ遠征しその先で反乱の鎮圧に成功した。
サルマタイ人との関わり
当時は現在のスコットランドに住んでいたカレドニア人らへの防壁として122年に建てられたハドリアヌスの長城の監視・警備を行なっており彼が率いた部隊の中にはイラン系(トルコ系・カザフ系説あり)半遊牧民族サルマタイ人の一派であるイアジュゲズ族も含まれた。
イアジュゲズ族はサルマタイ人の中でもドナウ川やドニエプル川に住んでいた民族だが175年にマルコマンニ戦争でマルクス・アウレリウス率いるローマ軍に数回に渡る戦いに敗北した事で8,000人の重装騎兵をローマ帝国へ送り、その内5,500人の重装騎兵がブリタニア属州での警備を務めることとなる。
ちなみにこの際イアジュゲス族の捕虜となっていた10万人のローマ兵も解放されたが、この数は戦争の名前になっているマルコマンニ族のそれを遥かに上回っている(マルコマンニ族に捕らえられた捕虜は3万人)。故に歴史家カシウス・ディオ曰く「マルコマンニ戦争ではなくイアジュゲス戦争と呼ぶべきだ」。
彼等はブレメテンナクム・ウェテラウヌム(現イングランド・リブチェスター)に駐屯し、退役後もそこに住み続け、研究者らによって遺物も発見された。
なお、イアジュゲズ族に対する勝利を決めた冬に行われた氷上のドナウ川での戦いにおける奇策はカストゥスが提案したものではないかという意見もある(リンダ・A・マルカー氏はカストゥスがサルマタイ人ないしイアジュゲズ族に対して特別な知識があった可能性を指摘している)。