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概要編集

古典ラテン語: Lucius Artorius Castus


帝政期ローマの軍人。生没年不明(2〜3世紀)。後にダルマチア属州(現クロアチア)の行政長官を務めたとされる。

身分は騎士階級(エクティス、豊かな平民)とされているが、正確な出身地は不明。イタリア南部カンパニア説とダルマチア属州説がある。リンダ・A・マルカーは前者、ケンプ・マローンは後者の説をとっている。なお他のアルトリウス氏族の碑文はイタリアで最も多く、合計53個見つかっている。


 ルキウス・アルトリウス・カストゥスに関する主な情報はクロアチア南部のスプリト−ダルマチア郡ポドストラナ(当時はローマ帝国ダルマチア属州の首都サロナだった場所でかのディオクレティアヌスの出身地でもある)で発見された2つの石棺による。

 また、彼の名が刻まれた3つの石棺の1つがローマで見つかっているが同じ人物のものか同名の別人のものかは不明。長子に自分の名前、次男以降には親戚の名前をつけることは古代ローマに限らずギリシアカルタゴフェニキア系にもよく見られる。


氏族について編集

 アルトリウス氏族(Artoria、女性型は「アルトリア」)の名前の由来はエトルリア語(「農民」を意味するArnthurのラテン語Artor)乃至メッサピア語(Artorres)。或いは現在のスイス周辺で信仰されていた熊の女神アルティオ(Artio、ローマ神話ではディアーナと同一視された)からという説もある(Alessandro Faggiani 2018, 1〜8P)。


 またプルサのアスクレピアデスの生徒(息子or養子説あり)の1人にはアウグストゥス帝の友人兼侍医であるマルクス・アルトリウス・アスクレピアデスがいる。

 彼の息子乃至養子であるマルクス・アルトリウス・ゲミヌスの子孫にはネルウァ=アントニヌス朝の第2代目皇帝トラヤヌスや第5代皇帝マルクス・アウレリウスとその息子コンモドゥスが存在し皇族とも縁がある(Alessandro Faggiani 2018, 22P)。


経歴編集

石棺に書かれた彼の経歴は以下の通りである


シリア属州・ラファネア(現シリア・ハマー)に駐屯する第3軍団ガッリカの百人隊長

シリア・パレスチナ属州・死海付近に駐屯する第6軍団フェラッタの百人隊長

パンノニア属州・アクインクム(現ハンガリーの首都ブタペスト)に駐屯する第2軍団アディウトリクス百人隊長

下モエシア属州・トロエスミス(現ルーマニア・トゥルチャ県、107〜161年)〜ダキア・ポロリセンシス属州・ポタイッサ(現ルーマニア・クルージュ県、166〜274年)に駐屯する第5軍団マケドニカ百人隊長後に筆頭百人隊長

ローマ海軍ネアポリスのユリウス港に駐屯するミセヌム艦隊提督

余談だが、大プリニウスは同役職の際にウェスウィオ火山の大噴火にて殉職した

ブリタニア属州・エボラクム(現イングランド・ヨーク)に駐屯する第6軍団ウィクトリクスの長官(プラエフェクトゥス、種類は不明)後に軍務長官(ドゥクス、2つ以上の軍団の指揮権を有する大将)。


 軍を退役後はダルマチア属州・リブルニアの行政長官(皇帝代行)となり、死刑判決を下す役割を担っていた。その権限は強く、元老院階級すらも処刑できた。

 ちなみにこの役職の収入は年収10万セステルティウス(3億2000万~6億円)である。


 没年・死因は不明。


※石棺の碑文を見る限り最初から百人隊長を務めていたようだがこの百人隊長になるには幾つかの方法(長田龍太氏の「古代ローマ 軍団の装備と戦法」より引用)がある。


・兵士から百人隊長に昇進。ある程度の条件を満たした上で15〜20年の歳月を要する

・16年間近衛軍団の軍務期間を果たす

・コホルスの司令官を経て就任

・騎士階級出身者として皇帝の力添えで就任


 上3つであれば省略した可能性もあるが碑文通りであれば最後が該当する。実際に筆頭百人隊長になる者の大半は下から3つのいずれかであった。余談だが一番上のやり方だと筆頭百人隊長になるまで更に20年の歳月がかかる。


※騎士階級の条件は40万セステルティウス(日本円で換算すると12億8000万~20億4000万円)の純資産を維持すること。リンダ・A・マルカー氏はカストゥスが軍団に入団したことから年上の兄弟が存在し、本人は遺産の相続権を持たなかったためと考えている。


人物編集

 第6軍団ウィクトリクス在籍時、同軍が待遇改善を求め当時のブリタニア属州総督のペルティナクスに対して何度も反乱を起こしたがカストゥスはローマへの忠誠を貫いて反乱には加わらず、その姿勢が評価された事でペルティナクスによって軍務長官へ昇格。後にアルモニカ(ガリア・ルグドゥネンシス属州の一部、現在のフランス・北ブルターニュ)へ騎兵軍団を率いて遠征しその先で反乱の鎮圧に成功した。

 歴史家ヘロディアヌスが言及している185年に、アルモリカへ遠征に行った名称不明の指揮官の正体が彼という可能性がある。また歴史家カシウス・ディオの父がダルマチア属州の官僚を務めていたため、一部の資料はカストゥスから直接得たものとも考えられている。ディオの著書にカストゥスの名前が出ないことに関してはディオの父がカストゥスと競合する関係にあったためと、リンダ・A・マルカー氏は下記に記載する著書にて推測している。


サルマタイ人との関わり編集

 当時は現在のスコットランドに住んでいたカレドニア人らへの防壁として、122年に建てられたハドリアヌスの長城の監視・警備を行なっており、彼が率いた部隊の中には遊牧民族サルマタイ人の一派であるイアジュゲス族も含まれたという説がある。


 イアジュゲス族サルマタイ人の中でもドナウ川〜ドニエプル川周辺に住んでいた民族だが175年にマルコマンニ戦争マルクス・アウレリウス率いるローマ軍に数回に渡る戦いの末に敗北した事で8,000人の重装騎兵がローマ帝国へ徴兵、その内5,500人がブリタニア属州にて500人のグループに分かれハドリアヌスの長城付近に配置された。


 ちなみにこの際イアジュゲス族の捕虜となっていた10万人のローマ兵も解放されたが、この数は戦争の名前になっているマルコマンニ族のそれを遥かに上回っている(マルコマンニ族に捕らえられた捕虜は3万人)。


 またイアジュゲス族に対する勝利を決めた冬に行われた氷上のドナウ川での戦いにおける奇策(盾を足場にして氷上でレスリングするというもの)は、カストゥスが提案したものではないかという意見もある。

 リンダ・A・マルカー氏はカストゥスがサルマタイ人ないしイアジュゲス族に対して特別な知識があった可能性を指摘している。事実、彼はイアジュゲス族の生息域と隣接したパンノニア属州や下モエシア属州に駐屯する部隊に所属した経験もある。


 ブリタニア属州にいたイアジュゲス族らは25年間の軍務期間を終え退役軍人となった後、ローマ市民権を獲得し、ブレメテンナクム・ウェテラノールム(現イングランド・ランカシャー南東部リブチェスター)にあった居留地に定住した。そのためサルマタイ人の遺物はイングランドでも複数発見されている。


 また、ブリテン島におけるサルマタイ人関連の遺物は此処以外にも現在のノースヨークシャー州キャタリックにあたるカタクラトリウム、チェスターにあったデーウァ(カストゥスの時代では第20軍団ウァレリア・ウィクトリクスの駐屯地)でも発見されており此処にも駐屯していたと思われる。


アーサー王との関連性とサルマティアン・コネクション編集

 ルキウス・アルトリウス・カストゥスがアーサー王のモデルという学説は1924年ケンプ・マローン氏よって発表された。

 彼は「アーサー」が「アルトリウス」を語源としていると考えたがこの説はしばらくの間支持されなかった。


 しかし1975年にドイツの歴史家ヘルムート・ニッケル氏は以下のことを根拠にカストゥスと彼が率いたイアジュゲス族補助騎兵軍団がアーサー王及び円卓の騎士に影響を与えたと主張した。


・イアジュゲス族補助騎兵軍団はドラゴンの旗を持つ騎手がいた(チェスターで発掘された石板には旗を掲げたサルマタイ人兵士が描かれている)

・サルマタイ人は軍神を祀る際、白い石で円を作りその中央に剣を刺す習慣がある(アンミアヌス・マルケリヌス『ローマ人の歴史』より)

・5世紀時点でイアジュゲス族の子孫がブリタニア属州に存在した

・アーサー王と紀元前4世紀にサルマタイ人に逐われたスキタイ人(両者共にイラン系騎馬民族で習俗もよく似ている)の末裔とされるオセット人の伝承が類似している


 更に後年C・スコット・リトルトン氏やリンダ・A・マルカー氏も上記2つの伝承に於ける類似点(剣の返還の場面など)を指摘し(詳細は2人の著書「アーサー王伝説の起源 スキタイからキャメロットへを参照)、著書ではブリタニア属州にいたイアジュゲス族が指導者の称号として「アルトリウス」を名乗り、後に訛って「アーサー」という名前の由来となったとしている。

 これが所謂アーサー王サルマタイ人説である。


 しかし勿論上記の説には欠点もある。そもそもルキウス・アルトリウス・カストゥスがサルマタイ人と関わっていた正式な記録・遺物自体は存在しない。

 オセット神話も19世紀以降に文字化されたことから十分に他地域の伝承が入り込む余地があり、スキタイ神話との関連は信憑性に欠けている。またオセット人がスキタイ人の後裔という説自体も父系遺伝子の不一致(スキタイ・サルマタイ人がR1a、オセット人はG)から確固たるものではない。なおR1aが多い地域は現在のポーランドやロシア西部、カザフスタンである。


その他編集

・親戚や子孫の情報は残っていないが冒頭に記したローマの石棺は親戚の何かである可能性がある(繰り返し述べるが古代人は長子に自分と同じ名前をつける傾向にある)。勿論本人の顕彰碑文の一部という可能性もある。


・クロアチア・スプリトでアルトリア・セクンディアという女性の碑文が見つかっており一部研究者の間ではカストゥスの娘である可能性を指摘されている。ちなみにセクンディアは「二番目の娘」という意味。姉妹が三人以上いる場合に用いられる。


・アルトリウス氏族の起源と思われるカンパニア地方は花の女神フローラの信仰が盛んな街。これに関連するかは不明だがカストゥスの碑文の両端には四弁花(幸福と喜びの象徴として古代ローマ人に尊ばれていた)の模様が描かれている。


参考文献編集

The Hiroie Age, Issue 1, Spring/Summer 1999


Lucius Artorius Castus - Wikipedia


Artoria gens - Wikipedia


Gens Artoria: La Gens vicica agli Imperatori Romani(Italian Egition) Alessandro Faggiani


The proto-Slavic warrior in Europe: The Scythians, Sarmatians and Lekhs/ Cynarski Wojciech J. , Maciejewska Agnieszka, 2016


アーリア人 著者:青木健/講談社選書メチエ/2019


アーサー王伝説の起源 スキタイからキャメロットへ 著者:スコット・リトルトン氏、リンダ・A・マルカー氏 訳:辺見葉子氏、吉田瑞穂氏


6人のアーサー王を追え!(ウェールズ歴史研究会) 著者:たなかあきら氏


その他各外部リンクを参照


関連タグ編集

古代ローマ ローマ帝国 ローマ帝国軍


歴史 ローマ アーサー王

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