概要
生誕
慶安元年3月6日(1648年4月28日)-享保7年9月4日(1722年10月13日)
官位
生涯
尚嗣の長男として誕生したが生母は家女房だったが父が早く亡くなり尚嗣と女二宮に男子がいないことで後水尾上皇の命で家督を嗣ぐその後明暦元年(1655年)に従三位に叙爵。翌年に権中納言。万治元年(1658年)に権大納言に就任した。寛文5年(1668年)に内大臣、寛文11年(1671年)に右大臣。延宝5年(1677年)左大臣。霊元天皇の在位中基煕は天皇とは意見が合わず関白の職ははとこの一条兼輝が就任した。東山天皇の即位後の元禄3年(1690年)に関白に就任した。基煕と東山天皇は良好関係となった。宝永6年(1709年)に太政大臣に就任した。宝永7年(1710年)に基煕は江戸に向かい新井白石と共に閑院宮の創設に加わった。享保7年(1722年)に出家して同年に死去。
家族
正室:常子内親王(後水尾天皇の皇女)
長女:近衛熙子 - 徳川家宣の御台所
長男:近衛家熙
次男:大炊御門信名
生母不詳
男子:寛守- 家熙養子、大覚寺門跡