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稀勢の里の編集履歴

2020-04-06 08:20:16 バージョン

稀勢の里

きせのさと

茨城県出身の大相撲力士。大相撲第72代横綱。

概要

稀勢の里 寛(きせのさと ゆたか)は、茨城県牛久市出身の力士

1986年7月3日生まれ。

本名は萩原寛(はぎわら ゆたか)。

最高位は横綱。身長187cm、体重175kg。

相撲ファンからは「キセ」「キセノン」などと呼ばれることが多い。

幕内最高優勝2回。


力士像

ルーキー時代から貴乃花二世」の呼び声も高く、「横綱に最も近い日本人力士」として長年に渡り期待をかけられていた。しかし、幕内昇進後は大関昇進まで7年を要し、度々優勝の期待を掛けられながらも、その度にチャンスを逃しては、勝負弱さを指摘されていた。後述の悲願の初優勝を果たしたのは、大関昇進から更に5年経過した2017年初場所に於いてである。


彼の弱点の一つとして脚の長い体形に由来する「腰高」がしばしば指摘されるが、これは少年時代から直っていないと大相撲中継で北の富士勝昭舞の海秀平たち解説陣からコメントされたことがある。

また、中日を迎える前の前半戦の内に格下相手に取りこぼす悪癖があり、似たようなパターンで取りこぼすことや、勝負所と見做される一番で白星を挙げられないことも散見された。それ故に「学習能力がないのか」と、失望するファンも少なくなかった。

ただ、周囲の期待が掛かるとプレッシャーで力を発揮できず、なかなか勝てないが、誰も期待していない状況だと非常に強い。優勝争いに影響を及ぼす一番で上位力士や優勝争いのトップを走る力士に土を付ける相撲も少なからずあり、ファンや中継番組視聴者に鮮烈な印象を与えて来た。長年のファンにとっては、その期待と失望を繰り返す稀勢の里に対して、「目が離せない存在」という思いを抱かせることになっていたとみられる。


2006年の初場所に大関栃東大裕(現・玉ノ井親方)が優勝して以来、日本出身力士による幕内優勝は10年間途絶えており、「この状況を打破するのは白鵬戦に1番勝っている稀勢の里」(過去には白鵬の63連勝の記録を止めたことがある)と皆が期待したものだが、その10年ぶりの優勝は2016年の初場所の大関琴奨菊に持って行かれ、さらに同年の秋場所では、優勝を(同じく日本出身である)大関豪栄道にまでも持って行かれた。だがそれでも、「途絶えて久しい日本人横綱になるのは稀勢の里」と、ファンは彼の今後の奮起を待ち望んでいた。


2016年、白鵬(横綱に昇格した2007年から2015年までの9年連続年間最多勝力士)が秋場所に全休した影響があるとはいえ、1998年の若乃花勝以来18年ぶりの日本人の年間最多勝力士(69勝21敗)となる。ただし、1958年に年6場所制が施行されて以来、史上初の幕内優勝経験ゼロで獲得する珍しい記録となった。

大関在位中、角番回数がたった一回という成績が示す通り、大崩れがなく毎場所安定した白星を積み重ねていた事がその記録につながったわけだが、ファンとしてはやはり歯痒い限りであった。


悲願の初優勝、そして横綱へ

2017年初場所は初日から8連勝。9日目に初黒星を喫し、その後はいつも通りに内容に危うさを見せながらも白星を重ね続け、14日目までに1敗を堅持。その日の結びで、星一つの差で追っていた横綱・白鵬が敗れたため、千秋楽を待たずに悲願の初優勝が決まった。また千秋楽でも白鵬に勝利。14勝1敗の成績で初場所を終えた。


初場所千秋楽の翌日1月23日、横綱審議委員による稀勢の里の横綱昇進についての審議会が開かれた。

稀勢の里の品格や力量を審議した結果、全員一致で稀勢の里を横綱に推薦することが決まった。平成10年の若乃花以来19年ぶりの日本出身横綱の誕生である。珍記録だった2016年の年間最多勝も、初場所に優勝したことによって「安定した実力がある」と好意的に取られたことも大きい。また、初土俵から休場がたった1回だけ(2014年初場所千秋楽の不戦敗)であることも大きな要因である。


そして25日の日本相撲協会の臨時の理事会などを経て、晴れて正式な横綱となった。優勝1回での昇進に対する疑問の声も少なくなかったが、それ以上に久しぶりの日本人横綱を望む声が強かったと思われる。新入幕から73場所目での横綱昇進は昭和以降1位のスロー記録である。


第72代横綱で、土俵入りの型は亡き隆の里の不知火型ではなく祖父師にあたる初代若乃花雲竜型を選択した。

横綱時代

2017年3月場所、新横綱として土俵に上がった稀勢の里は初日から12連勝を達成する。これは亡き先代師匠である隆の里(15戦全勝)に続き、新横綱場所の連勝記録としては歴代2位タイであった(他に旭富士など)。

しかし、13日目に日馬富士に敗れた際に左大胸筋と上腕二頭筋を痛める大怪我を負う。休場の可能性もあったが強行出場し、千秋楽で1差を付けられていた大関・照ノ富士に本割・決定戦で連勝し、2連覇を達成した。

なお、新横綱での優勝は第65代横綱・貴乃花光司以来22年ぶりとなった。


怪我との戦いから引退まで

しかし、強行出場の代償は大きかった。同年5月場所、7月場所は怪我の影響による成績不振に陥り、途中休場を余儀なくされ、以降は2018年7月場所まで8場所連続休場となった。「早く引退すべき」「相撲協会が引退勧告を出せ」という声も日に日に大きくなったが、相撲協会は人気がある日本人横綱を引退させる決断を下せず、稀勢の里本人も横綱としての責務を果たしたいとバッシングに耐えてあがき続けた。

だが、何とか皆勤出場を果たした同年9月場所は10勝5敗に終わり、その千秋楽で豪栄道に喫した黒星から、11月場所では初日から4連敗で途中休場、翌2019年1月場所でも3連敗となって、横綱として8連敗という不名誉な記録となってしまう。


ここに至り、もう自分の相撲が取れないとして、2019年1月16日、現役引退と年寄荒磯を襲名する事を発表。逆風に晒されながらも、周囲の期待と、横綱としての責務に応えるべく邁進し続けてきた彼の引退には、多くの拍手と労いの言葉が贈られた。


なお、引退後にスポーツ雑誌「Number」で明かされたことだが、実は2度目の優勝後、帰京してより精密な検査を受けると、左上腕二頭筋は手術できないほどの筋断裂を負っており、完治は不可能な上、ある程度治ってもせいぜい負傷前の6割程度の力を出せるかどうかという状態だったとの事。本人も土俵から落ちた際に「ブチっと音がした」と語っているほどで、元々左を得意としていた稀勢の里にとっては力士生命の致命傷であったと言えるであろう。


結果的に横綱通算成績は勝率5割という結果に終わったものの、昇進直後の場所で序盤の取りこぼしを克服しつつあり、横綱としての本来の力は決して弱かったわけではない。返す返すも怪我が悔やまれる。

現役引退後はプレッシャーからの解放もあって好調であり、弟弟子の高安を圧倒するなど元横綱の名に恥じぬ強さを稽古場で発揮して後進を育成している。


余談

  • メイン画像のような、土俵に向かう時の険しい表情のイメージがあるが、亡き師匠である十三代鳴戸親方(元横綱・隆の里)の方針で、「勝っても負けても表情を出すな」という教えを守っていたため。土俵の外では口数も多く、冗談を言ったりもするという。引退後はむしろ饒舌なタイプになり、的確でわかりやすい解説が好評を得ている。
  • 横綱昇進祝賀会の際、コアミックス社から「北斗の拳」のラオウの化粧まわしを贈呈され、それを着けて横綱土俵入りをおこなった事がある。引退会見の時は「横綱として皆様の期待に応えられないという事は悔いが残りますが、土俵人生において一片の悔いもございません」とラオウの最期の台詞を意識したかのようなコメントを残した。なおその前にハローキティの化粧まわしを付けていた事があった。

関連タグ

大相撲 力士 横綱


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