大日本帝国陸軍中将。1894(明治27)年生まれ、陸軍士官学校(26期)・陸軍大学校(34期)卒。
陸軍随一のパワハラ精神の持ち主であり、ことあるごとに部下を殴り自殺を強要していたことから、上は少将から下は兵卒まで自殺者や精神疾患を起こす者が続出した。花谷のパワハラにより自決させられた者は、少なくとも十数名に及ぶ。
主な戦歴としては、関東軍在籍時に満州事変を首謀し、満州国建国の基礎を作る。第二次世界大戦においては、ビルマで第55師団長として、英領インドへの侵攻作戦である第二次アキャブ作戦を指揮したものの、無能で杜撰な作戦指導により花谷の部隊は5,000名以上の死傷者を出し、敗北した。が、陸軍上層部のお友達主義により、彼自身が敗北の責任を問われることはなかった。
戦後に花谷が病気で倒れた際、見舞金のカンパが行われたが、旧部下は誰一人としてこれに応じなかった。病死後、旧満州関係者が列席した盛大な葬儀が営まれたが、旧部下は誰一人会葬しなかった。
人物
日頃から、陸軍幼年学校(陸幼)卒や陸軍大学校(陸大)卒の経歴を鼻にかけ、相手が上官であろうと陸大卒でなければ「大学校を出てやい奴(無天)はだめだ。低能め」と暴言を吐いた。同じ陸大でも、専科(戦時に設けられた速習課程)卒だと「本科でないとだめだ」と言って徹底的にいじめぬいた。ただし、陸大本科卒の将校でも花谷のパワハラに耐えかねて自決した者もいるので、学校歴はあまり関係ないのかもしれない。
新規着任/昇進/転出に伴い花谷に申告に行くと、必ずと言っていいほど暴言を吐かれ、殴られ、ひどいときには自決を強要された。このため、花谷のいる部隊に異動となった者は、周囲から憐みの目で見られたという。また、他部隊への転出が決まった者の中には、(自決を強要されると予想して)花谷に異動の申告を行わないまま転出した者も数名いた。
花谷は武闘派に見えるが、根はかなりの小心者のであったようだ。日本軍が制空権を失いつつあったビルマでは、英軍機による空襲が頻繁に行われるようになった。花谷は空襲を極度に恐れ、行軍の際には小休止のたびに花谷専用の防空壕を掘らせていた。また、司令部移転の際に、完成した新司令部の出入口と防空壕の出入口が離れていることに立腹し、「貴様は戦術を知らん」と建設担当の兵に暴言を吐いた。しかしながら、ダメな理由を建設担当の兵には一切指摘せず、問題が解決されるまで司令部庁舎を何度も立て直させたという。普通に考えれば、過ちを早期に担当まで指摘し、防空に支障のない司令部をさっさと作るべきなのだろうが、そんなことは陸軍上層部の精神主義者の考えの及ぶところではない。
花谷は些細な事でも処罰を命じた(逆に、部下の処罰をしない日はほぼなかったという)。ビルマ時代、入浴から師団司令部に帰ってきた花谷に対して、歩哨が「閣下のご不在中、異常はありませんでした」と報告すると「ばかもん。ここは戦場だぞ。異常がないことはない!」と憤慨した。逆に異常であるならば、そのような中で悠長に浴衣がけで入浴に行く花谷自身も頭がおかしいという論理になるが、歩哨は理不尽にも謹慎10日の処分を受けた。
花谷は、起案文書などの細かい「てにおは」に異常にこだわり、誤りを指摘しないままに何度もやり直しを命じた。このため、野戦病院の開設など重要事項の決裁が大幅に遅れ、部隊運用に多大な悪影響を及ぼしている。やっとこさ野戦病院開設の決裁が通ったとしても、戦況の変化で開設予定地がすでに最前線となっており、時間もないため独断で後方に設置し直そうとした軍医に対して、花谷は「俺の命令と違う!」と烈火のごとく怒り、殴りつけた。
このように非常に問題の多い人物であるが、陸軍上層部にとっては、彼らが最重要視する「精神主義」の強烈な体現者であり、また満州国建国に貢献した花谷は、まさに理想の人材像であった。陸軍幼年学校の教育では、満蒙を日本の勢力圏に置く思想を徹底的に叩き込んでおり、満州国建国を通じてそれを実現した花谷は陸軍のエース・オブ・エースと見られていた。このような経歴もあり、花谷は常日頃から「満州国はわしが作った」と豪語して回っていた。
陸軍が最重要視する「精神主義」の強烈な体現者である花谷は、弱気な発言を一番嫌った。長年の戦闘による疲れと気候の違いで憔悴しきった現場の兵を指して「体力が低下していて、とても戦える状態でない」と正直に具申した軍医部の少佐に対して、「き、き、きさまア。貴様は国賊だ。ぶち斬るぞ」と花谷はどもりながら激高し、剣を構えた。少佐は「覚悟はできております」と一歩踏み出して首を突き出した。すると花谷は突然ヒヨって「以後、気を付けろ」と吐き捨てて去っていった。
経歴と数多のパワハラ*
満州事変
奉天特務機関に在籍していた花谷(当時、少佐)は、関東軍高級参謀・板垣征四郎、作戦主任参謀・石原莞爾らとともに満州事変(満鉄線路の爆破→中国軍閥のせいにして自衛名目で満州一帯に軍事侵攻)を首謀する。決行の2日前、関係者が酒を飲みながら決行するかいなか議論を行うも、結論はでなかった。板垣はやむなく、「おれが箸を立てて、右に倒れたら中止、左に倒れたら決行だ」と叫び、箸を放つと、右に倒れた(中止)。一向が諦めようとした時に、ある大尉が立ち上がって「命の惜しい者はやめろ。おれがひとりでやる」と軍刀を持って出ようとし、それを花谷が取り押さえ「ぬけがけはゆるさんぞ。俺も行く」といきり立った。花谷の勢いに板垣が負け、「それでは、やることにするか」と採決した。日本軍は、このようなしょーもない事情で重大事項を決定していたのである。
満鉄線路の爆破(柳条溝事件)がなされると、特務機関から現地日本領事館にまで「柳条溝で中国軍が満鉄線を爆破した。至急来てくれ」と電話があった。領事館職員が駆けつけると、特務機関では、板垣をはじめ参謀連中が荒々しく動いていた。板垣は「満鉄線が爆破されたから、軍はすでに出動中である」と述べて総領事の協力を求めた。領事館職員は軍の陰謀ではないかとの感想を抱いたが、外交交渉による平和的解決の必要を力説した。軍はこれに反発し、同席していた花谷は領事館職員の面前で軍刀を引き抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と威嚇した。その後、花谷は領事官邸に軍刀をちゃらつかせて殴り込み、軍に不利な内容の電報を外務本省に送るのをやめるよう怒鳴りつけ、自身が率いる小隊を動員して無線室を破壊すると威嚇した。領事館職員は反論し、念のため総領事にも引き合わせると、花谷は渋々引き下がった。
満州事変後、花谷は独断で軍を動かしたことを咎められ、処罰として富山市の歩兵第三十五連隊の第一大隊長に左遷される。本来であれば免官されて然るべきなのだろうが、陸軍上層部のお友達主義により左遷のみで済んだ。そのころ富山市の新聞社である北陸タイムスが、陸軍記念日に軍部に対して批判的な記事を掲載した。記事を見た花谷は激怒し、翌早朝、非常呼集を命じて大隊の兵を率いて北陸タイムスの社屋を包囲し、発砲した。
日中戦争
花谷(当時、大佐)は歩兵第43連隊長として、日中戦争に従軍する。暴風雨の中、湖を小舟で渡河していた折、隷下の大隊長の舟が強風に流され、部隊の進攻が遅れた。花谷は、多くの将兵の前で大隊長を口ぎたなく罵った。その後の迫撃戦の際、後方にいた花谷連隊長の本部が、大隊長に追いつき、花谷は馬上から「何をぐずぐずしているか」と鞭で大隊長をなぐりつけた。このとき、花谷は着任したばかりで、初陣ということでかなりイキり立っており、それだけに大隊長が遅れたことに激しい不満を持っていた。連隊が台湾に移動した際、将校のみの宴席が開かれ、花谷はこの大隊長をビール瓶で殴りつけた。大隊長は後に自決し、遺書は花谷が握りつぶした。
第55師団長
1943年10月、花谷(当時、中将)はビルマの第55師団長に着任した。空港で同師団の多くの将校が出迎えたが、花谷は降機するやいなや工兵連隊長に「服装がなっとらん!」と怒鳴り、殴りつけた。着任後、兵を前にして「いかなる場合でも、最後まで抵抗を続けよ。弾丸をうちつくし、軍刀が折れたとき、敵が数十名きたるとも、肉弾となって突入せよ。最後に天皇陛下万歳を高唱し、潔く散花せよ」と訓示し、兵を呆れさせた(このような精神力偏重主義は陸軍上層部に共通しており、花谷はその最も強烈な推進者であった)。
着任後の花谷の態度は、現場の兵曰く「ガラの悪いテキヤ」のようで、会議などの際には、両足をテーブルの上に乗せ、その足の間に兵が苦心して作った菓子と茶を挟み込んでいたという。この様子を見た一等兵は「このばか者がよくも天皇陛下の親輔する師団長になれたものだ」との感想を抱いている。
このような花谷に取り入ったのが河村弁治参謀長と斎藤高級参謀で、花谷が部下を怒鳴り、殴るのを横から冷笑していた。河村や斎藤は花谷をなだめたり、制止することは一切なく、自分が殴れないために花谷にひたすら同調していた。河村参謀長は、花谷の専用車(フォード)に皇族車を意味するあずき色の塗装を施すなどして花谷を大いに持ち上げ、花谷はさらに思い上がることなった(言うまでもないが、このようなヤクザまがいの師団長が皇族なわけがない)。なお、河村参謀長の専門は工兵(鉄道)であり、このような者を鉄道と縁もゆかりもないビルマ西部の師団の参謀長に置いたところでうまく機能しないのは火を見るよりも明らかであった。
花谷に一番多く殴られたのは高級副官の栗田中佐で、役職柄、直属の上司となる花谷の前に行くことが多く、一日に数回は殴られたという。栗田中佐の顔は赤く腫れあがり、血を流し、まともであることはなかったという。
師団司令部の近くに、空襲対策のため通行禁止となっている川原があった。暗夜の中、通行禁止の川原から師団司令部に入ろうとする人影を見た歩哨が「だれか」と問うた。その正体は花谷であり、「おれが帰ってくるのがわかっておるじゃないか。からかう気か」と歩哨に怒鳴り、殴った。歩哨の上長にあたる兵長が呼び出されたが、兵長は「通行禁止となっているのだから、確認するのは当然」と反論した。花谷は「通行禁止は兵隊のために決めたのだ。わしが通るのに文句があるか」と怒鳴り、その兵長は理不尽にも一等兵に降格させられた。その後、兵長は花谷を暗殺しようとするも周囲に止められ、後に自決した。
第二次アキャブ作戦
ビルマ南部のアキャブから英領インドに侵攻する第二次アキャブ作戦(『ハ』号作戦)が計画される。師団の兵棋演習において、花谷が無能で杜撰な作戦計画を披露したところ、部隊長数名から反対される。各部隊長は、前年の第一次アキャブ作戦で英軍相手に苦戦した経験もあり、花谷ら師団上層部が主張した「数日で英軍2~3個師団を撃滅する電撃的侵攻」がうまくいくとは考えなかった。陸軍一の精神主義者である花谷は、これを「弱気」と受け止め激怒、手に持っていた竹のむちで反対した者をなぐりつけ、強硬に押し通した。花谷ら師団上層部は、さらにインド領内を約300km奥深くまで侵攻する計画(チッタゴン侵攻)を練るも、上部組織にあたる第28軍に怒られたため渋々あきらめた。
第二次アキャブ作戦が発動されると、現場の努力により一時的に英軍をシンゼイワ盆地に追い込み、包囲することに成功した。しかしながら、英軍は空中補給や、戦車を円形に配置し、戦車と戦車の間に砲を配置した「管理箱陣地」を利用して頑強に抵抗した。火力に欠く日本軍は、包囲しているにもかかわらず劣勢となった。それでも、花谷は突撃命令を繰り返すことしかせず、有効な対戦車兵器を持たない日本軍は突撃命令のたびに戦死者が続出した。また、花谷の方針で食糧の補給は行わないこととなった(「食糧を要求するのは弱虫」とのこと)ため、食糧が尽きた前線では飢餓がはびこった。
包囲網の崩壊後、日本軍は守勢となるが、移動に時間のかかる砲の扱いをめぐって2名の将校が花谷により自決させられた。英軍の急速な反撃により回収不能となった重砲について、歩兵団の許可を得て爆破処理した小隊長の話を聞きつけ、花谷は憤慨した。本来であれば爆破の許可を出した歩兵団が責められるのだろうが、烈火のごとく憤激する花谷を前にして、歩兵団の少佐が「小隊長が独断で爆破した」と虚偽の申告を行ったため、小隊長は花谷から呼び出され激しい殴打を受けた後、手榴弾2発を用いて自決した。また、同じように英軍の急進により速射砲2門を仕方なく破壊した小隊長に対しても花谷は自決を強要し、後に小隊長は小銃で頭を打ちぬいて命を絶った。
鉄条網で守られた英軍陣地を山砲で攻撃して突破しようとして、援護射撃の要請を師団本部に要請した現場将校に対して、花谷は「お前と山砲の弾と、どっちが大事だと思うんだ。弾はもったいなくてやれんよ。あんなものは夜襲をすれば取れる。貴様、夜襲が怖いんだろう。腹を切れい。貴様の刀がさびていて切れんのなら、おれのを貸してやる。指揮するものは、なんぼでもおるんだ」と口汚く罵った。参謀が止めに入って取り繕ったが、花谷はその後も腹切りにこだわり、止めに入った参謀に対して「なぜ腹を切らせなかったのか」と怒鳴り、ハエたたきの青竹で殴りつけた。
花谷から自決を命じられて第一線に出て行って戦死した例も2、3に留まらなかった。陸軍精神主義の尖兵である花谷にとって、退却は決して許されないことであった。生存兵を集めた大隊が下がってくると、花谷は「今度さがってくると、ぶち斬るぞ」と大隊長を恫喝し、花谷の命令を受けて再度前線に出た大隊は、大隊長以下ほぼ全員戦死した。
花谷は空襲のみならず、敵の砲撃なども極度に恐れていたため、前線の視察に向かうことはなかった。一度だけ重い腰を上げて前線付近に出てきたものの、英軍戦車の威力を見た花谷は口から泡を吹いて一目散に退散した。インパール作戦の牟田口司令官のように、安全な後方で芸者とハッスルしていたというような記録がないだけ若干マシなのかもしれないが、前線視察を行わなかったことや日頃のパワハラのため、前線の正確な状況報告が花谷ら師団司令部にもたらされることはなかった。また、第一線の悲惨な状況を花谷に報告したところで、花谷は実情を把握しようとせず、報告した部隊が「戦意不足」であるため後ろ向きな報告をしてくるのだと判断し、部隊長に自決を強要した。このため、師団の作戦指導は前線の状況と全く乖離した実行不可能なものばかりだった。
前線で飢餓がはびこっている頃、花谷は「糧食を要求するのは、第一線部隊が弱虫だからだ。弱いやつは、おどしあげなければ戦には勝てないのだ」と吐き捨てた。前線の窮状を見かね、ある参謀が前線への弾薬輸送用の舟艇にこっそり食糧を積み込もうとした。花谷は偶然その現場を目撃し「貴様は参謀のくせに戦略戦術を知らん。めしばかり食っておって戦ができるか。貴様は不忠者だ。国賊だ。」と吐いて殴りつけた。その後、この参謀は連日のように花谷から殴られ、精神的に追い詰められていたため、良心派の軍医が特別の診断書を書いて後方に下げた。この軍医は、ほかにも精神的に追い詰められた多数の将兵に診断書を書き、後方に下げている。
花谷ら師団司令部の無能で杜撰な作戦指導にしびれを切らしたある連隊長は「これ以上、天皇の赤子を殺すに忍びず」と独断で撤退した。花谷は激怒し、連隊長を解任したが、連隊長は花谷との面会を一切避けて帰国したため、花谷から殴打されたり自決を強要されることはなかった。花谷は「逃がすのではなかった」と地団駄を踏んで悲憤したが、どうすることもできなかった。連隊長を召喚して軍法会議にかけることも考えたが、軍法会議開催により自身にも責任の追及がなされる可能性があることに気がつき、ついに諦めた。ちなみに、後のインパール作戦でも似たような出来事が起こった(佐藤師団長抗命事件)。
連隊長は内地へ帰任後、大本営で東條英機と 辻政信に花谷の無能っぷりと極悪非道ぶりを告発したが、全く相手にされず、陸軍上層部の愚劣さに絶望した連隊長は戦後に自決した。東條と辻は「なぜ全滅しなかったのか」「なぜ全員戦死しなかったのか」と詰問するだけで、花谷のパワハラや稚拙な作戦指導について追求しようとはしなかった。むしろ、彼ら陸軍上層部にとっては、花谷が持つ積極姿勢こそが至高であり、花谷の統率については模範とするべきものであるため話が通じる相手ではなかったのである。
作戦終了後、戦闘した将兵の慰労会が行われるが、花谷は第一線で苦闘した将兵から酒をつがれると「シンゼイワで負けてきた貴様らの酒が飲めるか」と罵り、酒をついだ杯を将兵に投げつけた。
第二次アキャブ作戦の結果は天皇陛下に上奏され、天皇陛下から激励の言葉が師団に贈られると、桜井徳太郎歩兵団長は感激し、次の訓示を行った。
“手を切られたら足で戦い、手足を切られた口で噛みつき、息が絶えたら怨霊となって敵を悩ます。これくらいの負けじ魂があってはじめて任務を完遂し得るのである。「刀折れ、矢尽きて」をわれらは断じて敗戦の理由にしてはならぬ。”
この訓示で説いていることは、当時の日本軍の基本思想であり、後にインパール作戦の折にも牟田口司令官が同内容の訓示を行っている。日本軍上層部は古風な精神主義で、第二次世界大戦の連合軍の新戦術と戦おうとし、徒に戦死者を増やすこととなった。
結果として、第二次アキャブ作戦では3,000名以上の日本軍将兵が花谷ら師団上層部の無能で杜撰な作戦指導のために戦死した。同作戦終了から一カ月後に、英領インドへの大規模な侵攻作戦であるインパール作戦が発動され、第二次アキャブ作戦の大失敗が規模だけを拡大して繰り返されることとなる。両作戦には驚くほど多くの共通点があり、陸軍大学校を出たエリート将校が行った作戦指導が如何に一様かつ低水準であるののかがよく分かる。この点において、両作戦を主導した花谷や牟田口を個人攻撃するのは無意味である。
第二次アキャブ作戦 | インパール作戦 | |
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規模 | 一個師団(第55師団) | 一個軍団(第15軍隷下の三個師団) |
指揮官 | 花谷正・陸軍中将(第55師団長) | 牟田口廉也・陸軍中将(第15軍司令官) |
戦術 | アキャブ付近の英印軍を殲滅→シンゼイワ盆地の包囲殲滅 | インパール盆地の包囲殲滅 |
督戦 | 花谷は突撃命令か死守命令しか出さない | 牟田口は突撃命令か死守命令しか出さない |
補給 | 桃太郎式補給(敵の武器・食料を鹵獲して使用) | 同左+ジンギスカン作戦(水牛に荷物を運搬させ、食料が尽きたら水牛を食べる) |
情報 | 花谷のパワハラのため、前線の正確な報告が司令部に届かない | 牟田口のパワハラのため、前線の正確な報告が司令部に届かない |
人事 | 隷下の三個連隊長は「戦意不足」との言いがかりを花谷につけられ、作戦中にすべて解任されるか戦死 | 隷下の三個師団長は「戦意不足」との言いがかりを牟田口につけられ、作戦中にすべて解任 |
部下の「反抗」 | 花谷の無能な作戦指導にしびれを切らした連隊長の独断撤退 | 牟田口の無能な作戦指導にしびれを切らした師団長の独断撤退 |
結果 | 日本軍の敗北(戦死3,106、戦傷2,229) | 日本軍の敗北(戦死26,000、戦病30,000以上) |
作戦後 | 花谷は、戦死あるいは自身が解任した三連隊長に敗北の責任を押し付ける | 牟田口は、自身が解任した三師団長に敗北の責任を押し付ける |
イラワジ河口への転進
第二次アキャブ作戦終了後、師団の弾薬集積所が英軍に爆撃され、師団の兵器部長は花谷から連日のように暴行された末に自決した。花谷は毎日、兵器部長を呼びつけて、弾薬集積所の被害について詰問を続け、殴打した。そのうちに、兵器部長は定期の昇進で中佐から大佐に進級するが、それを花谷に申告すると、花谷は「きっ、きっ、貴様のような、ば、ばかもんが、大佐になれるか。この階級ぬすっと!」とどもりながら乱打し、兵器部長は口から血を流した。その後、兵器部長はマラリアに罹るが、高熱の中でも連日のように花谷から殴打され、ついに倒れた。花谷は、倒れた兵器部長に唾を吐き捨て、重謹慎30日の処分を言い渡した。直後、兵器部長はピストルで頭を打ちぬいて自決した。この兵器部長は部下からの信頼も厚かったため、兵器部では花谷の暗殺計画が数回持ち上がったという。中でも、ある中尉は花谷暗殺用の手榴弾を密かに入手するところまでは漕ぎつけるが、直後、虎に襲われ死亡したため花谷爆殺は実現しなかった。
戦況が増々悪化してくると、花谷は次第に癇癪の激しさを増していった。この頃に開催された兵棋演習では、花谷の暴力と罵声により20時間にも及ぶことがあった。この兵棋演習で「貴様らはそんな能なしだから、『ハ』号作戦では負けて逃げまわってばかりいた」と、第二次アキャブ作戦の大敗の原因を現地部隊に押し付ける発言をしている。
1945年2月、歩兵団長の交代人事があり、花谷は新しく着任した長沢少将を自分の宿舎に迎え、司令部幕僚が列席して、歓迎会が催された。花谷は、長沢少将にいきなり「なんだ貴様、蒋介石のおかげで少将になれたんじゃないか。無天の低能め」といつものように罵倒を始めた。長沢少将は「私はいかにも無天だ。しかし、歩兵団長としての任務は遂行しているつもりだ。何を言うか。貴様は大阪幼年学校では、俺の後輩じゃないか」と食って掛かった。花谷は顔を赤くして、ビール瓶をつかむと、永沢少将の頭をなぐりかかった。長沢少将はすばやく立ち上がって、軍刀の柄に手をかけた。副官が仲裁に入り、宿舎の周りの竹やぶの中に二枚のむしろを敷いて、論戦で対決することになった。二人はにらみ合っていたが、やがて、目をそらせた。そのまま無言でいたが、少しして花谷は「おれが悪かった。あやまる」と降参した。
この頃、師団はイラワジ河口付近に移ったが、そこで 2 名の将校が花谷から自決を強要され、命を絶った。うち1名は、花谷が足払いをかけて倒そうとしたところ、逆に花谷がその場に倒れてしまったため、花谷は逆上し、無抵抗の将校を押し倒し、蹴飛ばした。将校は、数日後にピストルで自決した。
第55師団の司令部内が異様な状況になっていることに、上部組織のビルマ方面軍もようやく気がつき、河村参謀長は方面軍によって更迭された。花谷を転出させる案も検討されたようだが、「陸軍の理想の人材像」であった花谷を転出させると戦線が崩壊するとの反対意見も根強く、実現しなかった。参謀長が交代すると、師団司令部の雰囲気はかなりマシになった。新たに着任した小尾参謀長は、花谷に「閣下、殴ったらいけませんぞ。師団長がおこったら、部下がいじけますぞ」と遠慮なく申告し、花谷は部下を殴ることが少なくなった。
ビルマ戦線崩壊後
1945年3月ごろ、花谷の第55師団は第33軍の指揮下に入り、中部ビルマに転進する。この頃になると、花谷の部隊は連合軍の進撃や転進に伴う混乱から 80 名ほどに減っていた。花谷が居たピンマナは第一線となり、いつ敵戦車に蹂躙されてもおかしくない状況となっていた。そんなところに、第33軍参謀の辻政信が、花谷に死守命令を持ってきた。自身が散々部下を追いやったのと同じ状況に花谷自身が追い込まれたのである。
死期が近づいて来たと悟った花谷に往時の面影はなく、第一線から撤退してきた他の部隊が花谷の指揮下に入ると申告に来ると「よかったな。兵隊がいなくては、戦ができんからな」と喜んだ。普段であれば「陣地に戻って死んで来い」と殴り飛ばすところ、すさまじい豹変っぷりであった。また、獣医部長が他部隊への転出に伴い花谷に申告に行くと、普段は殴り飛ばされるところ、「ながい間、ご苦労であった」と労をねぎらい、側近を驚かせた。将兵に対して「ご苦労」という言葉をかけたことは、それまで一度もなかったという。
敵の戦車部隊が近づいてくると、花谷は「えらく数が多いのう」とつぶやき、ようやく連合軍との戦力差を痛感したようであった。第二次アキャブ作戦の最前線でも似たような状況にあったが、当時の花谷は実情を把握しようとせず、ひたすら突撃・死守命令を繰り返したのみであった。
小尾参謀長は、損害を減らすために花谷に撤退を進言し、花谷は了承した。現在の司令部の状況を、第二次アキャブ作戦当時の花谷が見ると「これ以上さがると。ぶち斬るぞ」と罵声を浴びせるに違いなかったが、いざ自身がそのような状況になると話は別であった。
1945年7月、花谷はタイの第18方面軍参謀長に異動が決まり、部下の中には、花谷の転出を聞いてうれし泣きするする者も居たという。
1945年8月になると、ソ連軍の侵攻により、花谷が常日頃から「わしが作った」と豪語していた満州国が滅亡した。満州国、南部ビルマ戦役と、花谷が生涯を費やした事業は敗戦とともにすべて水の泡と化した。
戦後
戦後は軍人恩給で暮らしながら「曙会」という右翼団体を一人で運営した。旧満州関係者の中には、片倉衷のように満州時代の人脈を駆使して実業家になる者も居たが、花谷はそのようなことはせずに東京 代々木八幡の商店街にあった床屋の二階のひと間に住んでいた。第二次アキャブ作戦時、歩兵団長を務めた桜井徳太郎・元少将は、多くの将兵を死に追いやった後ろめたさからか、戦後に出家しているが、花谷が戦没者を弔う活動を行ったとする記録はない。ただ、第55師団は四国出身者が多かったため「花谷が四国に来ると生きては帰れないだろう」と噂になるくらい、四国の生き残りの兵士や遺族から恨まれていた。
1955年に歴史家の秦郁彦の取材に答える形で、満州事変が関東軍の謀略であったことを証言した。
1957年に花谷は肺ガンで倒れる。片倉衷が見舞金を募い、栗田・元高級副官が旧部下に声をかけたが、過去の悪行から花谷のことを嫌悪していた部下は一人としてこれに応じなかった。
同年8月28日に死去し、旧満州関係者が列席して盛大な葬儀が営まれる。葬儀は東京都港区の高野山東京別院で行なわれ、葬儀委員長は満州時代付き合いのあった十河信二・国鉄総裁であった。政財界から多くの花輪や生花がおくられ、満州時代につきあいのあった岸信介(当時の総理大臣)名義のものもあった。しかしながら、旧部下は誰一人として会葬しなかった。
評価
花谷の極悪非道ぶりをして、「彼が愚劣な軍人だから沢山の悲劇が起きた」と整理することも可能だが、注意しなければならないのは、花谷のような軍人が決して少なくなかったという証言が残されている点である。
花谷をはじめ、ビルマでの作戦を主導した将校らは、満州にルーツを持つ者が多い。インパール作戦の大失敗を目の当たりにした田中少将は「わしは長いこと満州におって、あすこにきている日本人どもが情なくて、あいそをつかしておった。今度、南方にきたら、やはり満州にいたと同じ日本人が、同じように情ないことばかりしておる。これじゃ、戦には勝てん。」と嘆いた。「満州にいたと同じ日本人」とは、花谷のほか、
- 牟田口廉也(第15軍司令官・インパール作戦を主導)
- 河辺正三(ビルマ方面軍司令官・牟田口の上司)
- 田中新一(第18師団長→ビルマ方面軍参謀長)
- 綾部橘樹(南方軍総参謀副長)
- 辻政信(第33軍参謀)
- 片倉衷(ビルマ方面軍作戦課長→第33軍参謀長)
あたりを指しているものと思われる。
これら将校は、その時代の秀才を集めた陸軍幼年学校(陸幼)に入り、中学生くらいの年代から純粋培養され、その後、陸軍士官学校・陸軍大学校(陸大)と進んだ文武両道に富むエリートであり、それゆえに陸軍上層部から期待され、当時「日本の生命線」と謳われた満州に配属された。花谷自身も、そのキャリアを鼻にかけていた。
ビルマの戦局が怪しくなると、また同じように彼らは期待されてビルマにやってきた。そして、上記の学校で教わった「精神主義」「局地的な戦術の着眼点」などを忠実に実行した。満州で練度・装備ともに劣る中国軍(という名の匪賊)を相手にしていた頃は何とかなっていたが、同じ戦法がビルマでも通用するものと思い込んだところ、連合軍の「思わぬ」抵抗を受け、何ら有効な対応策がとれず、大敗北を招いた。
彼らは、ビルマで連合軍を相手にするには荷が重すぎた。中学生くらいの年代から徹底的に「皇軍精神」を叩き込まれ、視野が狭くなった彼らには、外交・経済・工業・情報など軍事以外の分野の素養も問われる総力戦を遂行できるだけの力量はなく、また日進月歩で発達する軍事技術を使いこなす能力もなかった。そして、徒に学校で習った古い戦術や古風な精神主義を展開しては、損害ばかりが蓄積される結果となった。
花谷により自決をさせられた者は十数名、花谷の作戦指導で戦死した者は 3,000 名以上になるが、その死の理由を花谷だけに求めるには、あまりにもつり合いが取れなさすぎる。それだけ、彼らの命は尊い。なぜなら、花谷は大日本帝国陸軍という組織の中の 1 つのキーコンポーネントにすぎず、それが作り出された理由や過程を検証しなければ、根本原因にたどり着けないからである。それは、皮肉にも花谷自身が日頃から鼻にかけていた陸幼・陸大卒という経歴にあった。