ニッポン放送で放送されている『オールナイトニッポン』の木曜第1部に、1981年元日~1990年12月までビートたけしが司会を務めた放送。
たけしの向かい側には高田文夫が陣取り、たけし自身を含むスキャンダルトークや、業界人の面白話といった、フリートークをより一層面白くさせた。
たけしの謹慎中には大竹まことが代役を務めたこともある。
80年代の漫才ブーム真っ只中、「予算がないので、ビートたけしのみを起用したい」という制作側からの申し出をきっかけとして、放送史においても数々の「伝説」を残し、またツービートから脱却した、1人のタレントとしてたけしが羽ばたくきっかけとなった番組でもある。
第1回目放送から実在の事件をネタにしてクレームを殺到させるなど、過激な内容も多かったことでも知られる。
リスナーからの投稿を求めるコーナーとしては、マスターベーションの画期的な方法を募集する「たまきん全力投球」、村田英雄やガッツ石松らいわゆる「天然」の大物たちの「伝説」募集、「マヌケなものコーナー」、「こんな○○はイヤだコーナー」などが有名。
フリートークでは、ビートきよし、島田洋七、たけし軍団ら芸人、和田アキ子や大橋巨泉といった芸能人のエピソードのみならず、桂邦彦(『風雲!たけし城』プロデューサーであり、「担当した番組より打ち上げの方が面白い」人)氏や、当時の太田プロ副社長や、たけしのマネージャーだったジキル菊池氏、「IVSの伊藤」(のちのテリー伊藤)などの業界人らを有名にさせた。
『戦場のメリークリスマス』や『夜叉』など、たけしが出演した映画を介して、大島渚監督の「トカゲにキュー」事件や、高倉健が田中邦衛と漫才をやろうとした話など、大物の面白エピソードなども明らかにされた。
浅草キッドの2人はこの放送を聴いて弟子入り志願し(玉袋筋太郎は素人時代にもたけしに気に入られて数度出演)た他、太田光、松尾スズキ、ナンシー関、さくらももこらもヘビーリスナーだったことで知られる。