本来の表記は「渚」だが、非常用漢字なので以下「渚」と表記する。
概要
快作・名作よりも問題作が多く、新作を発表するたび様々な議論を巻き起こした。
京都大学卒のインテリであり、社会問題を構造的に組み込んだ映画作りを特徴としていた。劇映画のほかに多くのテレビドキュメンタリーも手がけている。
一方、前衛的手法を使った映画の実験にも熱心で、アバンギャルドな作品も多い。
作品のみならず本人の言動もセンセーショナルで、晩年はタレント・コメンテーターとしての活動が目立った。
経歴
1959年、『愛と希望の街』が初長編監督となる。
1960年、4作目の『日本の夜と霧』が大島に無断で上映中止になり、抗議した大島は翌年、松竹を退社。後に「大島組」と呼ばれるメンバーで創造社を結成。このころ女優の小山明子と結婚、生涯を共にする。
1960年代後半が映画監督としての最盛期となり、松竹や日本アート・シアター・ギルド(ATG)と提携して多くの作品を発表、国内外で知名度を高める。
1973年、創造社を解散。
1975年、大島渚プロダクションを新たに創設。翌年発表した『愛のコリーダ』が日本初のハードコアポルノとして槍玉に挙げられるも、世界で高い評価を受ける。以後、映画制作は海外との提携が主になる。
1980年代後半から『朝まで生テレビ』や『ボキャブラ天国』といったテレビ番組に出演し、お茶の間の顔になる。こういったタレント活動には映画の資金を稼ぐという面があったものの、本人も好きでやっていたという。
1990年代にはめっきり寡作になり、早川雪洲を描く大作『ハリウッド・ゼン』を企画していたのものの、資金難から頓挫してしまう。
1996年、脳出血で倒れる。その後3年のリハビリを行い、1999年に『御法度』を完成させる。これが遺作となった。
2000年、再び病状が悪化。長い闘病生活に入る。明子夫人は介護鬱になるも、克服する。
2013年1月15日没。享年80歳。
作風
- 社会の理不尽を告発し、人と人とが激しくぶつかりあう。重苦しく、時にナンセンス。平易な意味でのハッピーエンドは一つもない。それらは従来の松竹のホームドラマ路線を破壊するものであり、デビュー当時は「松竹ヌーベルバーグ」と謳われた。
- キャスティングには独自のこだわりがあり、「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター」という言葉を残す。演技力よりも存在感を優先し、プロの俳優でない人物を起用することが多かった。特に『戦場のメリークリスマス』における坂本龍一とビートたけしが有名である。
逸話
- 1989年にみうらじゅん、喜国雅彦らが、その名も「大島渚」というバンドを結成し、『三宅裕司のいかすバンド天国』に出場。別名、税金対策バンド。オンエアを視た大島自身から「俺の息子がお前たちのファンなんだ」というお言葉を授かる。
- 大島の結婚30周年パーティーにて、壇上で野坂昭如の名前を読み忘れ、酒の入っていた野坂が怒り、殴りあいになった。後日、両名とも反省文を送った。
作品
『明日の太陽』1959年 - 当時の新人映画俳優をPRする短編
『愛と希望の街』1959年 - 実質的なデビュー作
『青春残酷物語』1960年
『太陽の墓場』1960年
『日本の夜と霧』1960年
『飼育』1961年 - 大江健三郎の同名小説が原作
『天草四郎時貞』1962年
『小さな冒険旅行』1963年
『私のベレット』1964年
『悦楽』1965年 - 山田風太郎の小説『棺の中の悦楽』が原作
『ユンボギの日記』1965年
『白昼の通り魔』1966年 - 武田泰淳の同名小説が原作
『日本春歌考』1967年
『無理心中日本の夏』1967年
『絞死刑』1968年
『帰って来たヨッパライ』1968年 - ザ・フォーク・クルセダーズの同名楽曲が原作、クルセダーズが主演
『新宿泥棒日記』1969年
『少年』1969年
『東京戦争戦後秘話』1970年
『儀式』1971年
『夏の妹』1972年
『愛のコリーダ』1976年
『愛の亡霊』1978年
『戦場のメリークリスマス』1983年
『マックス、モン・アムール』1987年
『御法度』1999年 - 司馬遼太郎の小説『新選組血風録』が原作
出演
『平成教育委員会』(フジテレビ)
『欽ちゃんの仮装大賞』(日本テレビ)審査員長を務めた経験あり。
『世界ふしぎ発見』(TBS)
関連タグ
大沢啓二…同級生