吉田松陰
よしだしょういん
概要
諱は矩方。字は義敬。号は松陰・二十一回猛士など。
長州藩士・杉百合之助の次男。最初の名は杉寅之助。幼少のころ、叔父・玉木文之進が開いた萩の松下村塾でスパルタ英才教育を受ける。6歳のとき山鹿流兵学の師範吉田家を継ぎ、吉田大次郎のち寅次郎と名乗り兵学や史学を修めた。若輩ながら英明な君主・毛利敬親に抜擢され西洋艦隊撃滅演習(大真面目である)などを行う。しかしアヘン戦争の情報を知るや自分の軍学が最早陳腐化している事を痛感、藩のまた長崎・江戸に遊学して時勢に心を動かされ、佐久間象山に師事して洋学などを学んだが、開国・公武合体論を説いた師とは逆に攘夷論の立場をとる。ただし松陰の攘夷論は、一時的に開国を容認してでも富国強兵を優先する大攘夷である。
ペリー再来に乗じて海外密航を企てて投獄され、出獄後は自身も幼少期に学んだ松下村塾を継いで子弟を教育し、高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一・吉田稔麿の「松下村塾四天王」を始め伊藤俊輔(博文)・山県狂介(有朋)・佐世八十郎(前原一誠)ら幕末~明治に活躍した多くの人材を輩出した。ちなみに桂小五郎(木戸孝允)は松陰や門下生たちと関係が深く塾生と勘違いされやすいが弟子ではなく友人である。また松陰門下生と非常に関係が深い井上聞多(馨)は松陰から教えを受けたことはない。
時の江戸幕府が外国との不平等条約を無勅許で締結したことに激怒して、その中心人物と見なした老中の暗殺を考えるようになる。そして弟子たちにその協力を求めたが高杉・久坂・稔麿らほとんどの弟子たちに加え友人の桂からも反対されてしまう。このため計画に賛同した入江九一・野村和作(靖)兄弟以外の弟子たちを破門した。
その後、安政の大獄によって江戸で刑死した。
しかし、この一件は捕縛された梅田雲浜が暗殺計画と関与して無い松陰を巻き込んだ説がある。
現に松陰は最終的に流罪で済むところを井伊直弼自身がわざわざ死罪を命じたとされる。
『講孟余話』『留魂録』『松陰詩稿』『孫子評注』などがある。
人物
経歴を見ればわかるように、わずかな期間ながら明治維新の立役者となる多くの志士たちを弟子に持ち、彼らを育て上げたという功績があり、幕末を語る上では欠かせない人物ではある。
しかし一方で、29年の人生で5回も投獄されるなど長州藩の問題児でもあった。無論それは国家存亡の危機に立たされた日本の未来を憂い、何とか状況を打破しようという熱意故のものだが、その為に藩法をよく破り、松陰に理解のあった藩の上層部すら困らせた。
老中暗殺計画を公言するようになった際は、長州藩の判断によって投獄されが死罪になる予定は無かった。しかし、松陰と同じく幕政を批判していた一橋派の梅田雲浜が安政の大獄で捕縛されると、梅田との関係を幕府に疑われて江戸に連行される。そして取り調べを受けた際に聞かれてもいないのに老中・間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺計画を公言した為、驚いた幕府の判断によって刑死となった。
「狂愚まことに愛すべし、才良まことに虞るべし。諸君、狂いたまえ。」という門人に向けた言葉もよく知られている。
攘夷派であるが単純な異人嫌いと言うわけでもなく、自国の兵法を時代遅れと感じて西洋兵法にのめり込んだり、海外留学の為に密航しようとするなど西洋文明への憧れも持っていた。幕府と異国の条約締結に激怒したのも無勅許で行われたからであり、攘夷と言うよりは尊皇による怒りである。
たとえ嫌いな人物であっても評価は是々非々らしく、安政の大獄を起こした井伊直弼については彦根藩の統治だけなら「名君」と評価しており、大獄の協力者であった水野忠央についても水野奸と蔑む一方で才能ある人物と評価していた。一方で後白河院や後醍醐帝の政治については失政と認めるなど単純で盲目的な尊皇家ではなかったことが窺える。
血縁
創作での吉田松陰
吉田松陰を題材にした人物、またはモチーフにしたキャラクターが登場する作品。
- 『ラヴヘブン』
乙女パズルゲームの攻略キャラクター。→吉田松陰(ラヴヘブン)
異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。