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禁門の変の編集履歴

2021-05-19 12:57:57 バージョン

禁門の変

きんもんのへん

禁門の変とは、幕末の京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変、元治の変とも。

概要

幕末尊皇攘夷の気運が高まる京都に於いて、過激な思想をもって朝廷と結びつきを強めた長州藩であったが、文久三年、会津藩、薩摩藩などの親幕府勢力によってその勢力は京を追放された(八月十八日の政変)。

また翌元治元年の池田屋事件により、多くの長州派の志士たちが会津藩傘下の新撰組によって殺傷・捕縛された。


元治元年7月19日(1864年8月20日)、京都での勢力復権を目論む長州藩とそれを支持する諸藩の志士たちが、京都守護職を勤める会津藩主松平容保らの追放を求め挙兵。会津藩を中心に薩摩藩、桑名藩、新撰組などの勢力がこれを迎え撃ち京都の市街地の大部分を巻き込んだが繰り広げられた。

特に激戦地であった蛤御門には、今も無数の銃弾の痕が残っている。


この戦いで長州派勢力は多くの犠牲者を出し敗走。

御所に発砲したことから長州藩は朝敵とされ、幕府に対し長州藩追討の勅令が出された。


主な参戦者

親幕府側

一橋慶喜一橋家当主、禁裏守護総督。病気の容保に代わり総指揮を務めた。
松平容保会津藩主、京都守護職。病気をおして孝明天皇の傍に仕え、朝廷内の動揺を抑えた。
山本覚馬会津藩士。大砲隊を率いて活躍。この戦いの負傷が元で後に失明したとも言われる。
西郷隆盛薩摩藩軍賦役。
川路利良薩摩藩士。来島又兵衛を狙撃し負傷させる。後の警視庁初代大警視(警視総監)。
中村半次郎薩摩藩士。人斬り半次郎の異名を持つ。長州藩に同情して戦いに消極的だったとも、人斬りらしく積極的だったとも伝わる。
松平定敬桑名藩主、京都所司代。
近藤勇新撰組局長。
佐々木只三郎京都見廻組与頭。

他に福井藩、美濃大垣藩など。総勢約8万人、戦死者約60人。

長州派勢力

福原越後長州藩家老。後に第1次長州征伐の講話条件として切腹
来島又兵衛長州藩士、遊撃隊総督。蛤御門近くで川路利良に狙撃され、で自害した。
久坂玄瑞長州藩士、松下村塾三秀の一人。前関白鷹司輔熙に朝廷への取り成しを嘆願するが拒絶され自害。
寺島忠三郎長州藩士、松下村塾門下。久坂とともに鷹司邸で自害。
真木保臣筑後国久留米藩の神職。天王山で会津藩・新撰組に追い詰められ爆薬を使い自害した。
宮部春蔵熊本藩脱藩、池田屋事件で死亡した宮部鼎蔵の弟。真木保臣とともに天王山で自害。
入江九一長州藩士、松下村塾四天王の一人、奇兵隊参謀。久坂に長州藩主への伝言を託され脱出を図るが、討死。

総勢約3200人、死者約400人。


関連項目

幕末 戦争

池田屋事件 戊辰戦争

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