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吉田稔麿の編集履歴

2021-05-21 10:56:50 バージョン

吉田稔麿

よしだとしまろ

吉田稔麿は、幕末の長州藩士。

概要

天保12年(1841年)、長州藩下級武士の家に生まれる。初名は栄太郎。

幼いころから松下村塾(この頃の主宰は松陰の叔父の久保五郎左衛門)に学び、また宝蔵院流槍術柳生新陰流剣術を修めた。

父に従って江戸へ上り、黒船来航に遭遇する。


帰藩後、吉田松陰の下再び松下村塾に入門。

久坂玄瑞高杉晋作とともに松陰門下の三秀入江九一を加えて松門四天王と称される。

また松陰から無逸のあだ名を与えられ、増野徳民の無咎、松浦松洞の無窮とともに三無生とも言われる。


過激な思想を強めた松陰を諌めるため、他の門下生とともに師と縁を切るが、安政6年(1859年)の安政の大獄により松陰が江戸へ送られる際には、塀の隙間からそれを見送り涙したと伝わる。


文久3年(1863年)、高杉晋作が奇兵隊を立ち上げるとこれに参加。被差別部落民の登用を藩に建白し、屠勇隊を創設した。この頃から稔麿を名乗り始める。

幕府軍艦を一部の長州藩士が占拠する朝陽丸事件が起きると、稔麿は烏帽子直垂姿で乗り込み藩士たちを説得、解放させた。


元治元年(1864年)、上洛していた際に池田屋事件が勃発。この戦いの中、討死した。

死に様については諸説あり、

  • 事件の知らせを受け応援に向かおうとするも会津藩兵に囲まれ闘死
  • 会合を途中で抜け、帰ってきた際に池田屋を取り囲んでいた新撰組と闘い闘死
  • 会合中に襲撃され脱出するも、長州藩邸の門を開けてもらえず門前にて自害

などがある。


評価

幼い頃から無駄口を利かない鋭敏な少年であったと伝わる。

吉田松陰は「陰頑=心に秘めた強い意志を持っており、人により安易に動かされることはない」と評している。

松下村塾の同門であった品川弥二郎は後年、「生きていれば総理大臣になっただろう」と評している。

また池田屋事件にて敵対した近藤勇は「後世に学ぶべき天晴れな死に様だった」と評している。


創作における吉田稔麿

新撰組異聞PEACEMAKER/PEACEMAKER鐵

対

CV:諏訪部順一


長州藩士で、討幕・尊皇攘夷派の男性である。

吉田松陰の愛弟子として崇高な理念を持って活動している。


京都では、桝屋喜右衛門こと古高俊太郎の家に、他の長州藩士と共に居住している。

北村鈴が尊敬する師であったが、「池田屋事件」では臆することなく新撰組と戦って敗死した。


関連イラスト

【依頼ノ品】松門四天王:四人目吉田稔麿


花燃ゆ

吉田稔麿(2015)

演:瀬戸康史


関連タグ

幕末 長州藩士 尊皇攘夷 吉田松陰 松下村塾

奇兵隊 部落 池田屋事件


新撰組異聞PEACEMAKER PEACEMAKER鐵 PEACEMAKER 北村鈴

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