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関聖帝君の編集履歴

2021-09-04 18:43:33 バージョン

関聖帝君

かんせいていくん

関聖帝君とは、三国時代の蜀の武将・関羽の、道教の神としての姿である。

概要

縮めて「関帝」と呼ばれることもあり、彼を祀ったは「関帝廟」と呼ばれる。

三国志の英雄が神として祀られる事は珍しくないが、関羽は最もポピュラーで彼を祭る廟に「武廟」と呼ばれるものがある程。

ちなみに孔子を祭る廟は「文廟」ともいい、二人を祀る「文武廟」という施設が複数存在する。

文人における孔子のポジションを、武人において関羽は占めている。

道教を信じる中国人にとって関帝は人物神の代表格であり、海外の華僑コミュニティにもよく廟が建てられる。


史書に記録はないものの、関帝信仰では旧暦の5月13日あるいは6月24日を誕生日とし、生誕祭「関帝誕」を祝う。


生前、忠義に篤く武勇に優れる人物であった事から軍神として、また算盤や新しい帳簿を発明したという伝説から商業神とされる。

中国においては仏教寺院においても、お寺を守る「伽藍神」として祀られている。

日本でも、大陸から渡来したままの宗風を伝える黄檗宗を中心に関羽が祀られている。


歴代皇帝からの諡号

称号王朝・時代・年代贈った人物
壮繆侯蜀漢/景耀3年(260年)劉禅
忠恵公北宋/崇寧元年(1102年)徽宗
崇寧真君北宋/崇寧三年(1104年)徽宗
武安王北宋/大觀二年(1108年)徽宗
義勇武安王南宋/宣和五年(1123年)徽宗
壯繆義勇武安王南宋/建炎二年(1128年)高宗
壮繆義勇武安英済王南宋/淳熙十四年(1187年)孝宗
顕霊義勇武安英済王元/天曆元年(1328年)文宗
協天護國忠義帝明/萬曆十年(1528年)神宗
三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君明/萬曆四十二年(1613年)神宗
真元顕応昭明翼漢天尊明/崇禎三年(1630年)思宗
忠義神武関聖大帝清/順治九年(1652年)世祖
山西関夫子清/乾隆元年(1736年)高宗
忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝清/道光八年(1828年)宣宗
忠義神武霊佑仁勇威顕護國保民精誠綏靖関聖大帝清/咸豊五年(1855年)文宗
忠義神武霊佑仁勇威顕護國保民精誠綏靖翊讚宣徳関聖大帝清/光緒五年(1879年)徳宗

これらは各宗教における呼称の元にもなっている。


各宗教における関羽

各宗教でつくられる関羽の絵や像を構成する要素は『三国志演義』において結実することになる。『演義』においては死後怨霊となり、赤兎馬に乗って首を求めてさまよっている際、仏僧の普静大師(普浄とも)に恨みを訴えるが、「それならお前に殺された人々はどうなる」と諫められ大悟する、というエピソードがある。


道教

北宋の時代、道教信仰と明確に結びつけられる事になる。が、この時点では道教の宗派の一つ「正一教」の教主(頭首)「張天師」である張虚靖(30代目)が、悪さをしていた水蛟(みずち)を退けるために関羽を召喚する、という形であり、神将扱いではあるものの使役される側の立場である。

元帥神(武神)や財神といった側面を発達させながら、道教のパンテオンでの地位を高めていくことになる。


民衆向けの実践倫理を説いた「善書」の代表的なテキスト『覚世真経』は明の末期から清の時代初期にかけて成立し、関羽の啓示によるものとされる。


民間結社では「関恩主(かんおんしゅ)」ともいう。


関聖玉皇

扶鸞結社系では、関羽は1863年に十八代目の玉皇大帝に就任したとされ、「玄霊高上帝」とも呼ばれる。

この説によれば、他の道教における玉皇大帝にあたる神仙は「玄穹高上帝」と呼ばれ、十七代目にあたる。


道教には扶鸞(フーチ)と呼ばれる神がかり的な占いの儀式が存在する。19世紀末には混沌とした社会情勢を背景に世界の終わりが迫っているという「末劫説」が流行。それを打ち破るものを求めた人々による宗教運動が巻き起こった。運動に参加した人々は扶鸞を経て、神仙からの新たなる啓示と信じられる「鸞書」と呼ばれる宗教文書を多数制作した。前述の「善書」にもこの形式で著わされ編纂されたものが存在する。


関羽が扶鸞によって人々に啓示を与えるという「飛鸞闡教」説(四川省などで流布した「三相代天宣化」説では関羽に加え、呂祖、文昌帝君を加えた三名を教えを説く主体とする)が流布したことで、上述の扶鸞の流行に繋がったとされる。

1902年に雲南省で扶鸞によって書き上げられた『洞冥宝記』において関羽が十八代目の玉皇となったという記述がなされた。

本書でも関羽が扶鸞の儀礼を主宰し、その内容をもって人々を導く、という性格が明記されている。


儒教

儒教においては「文衡聖帝」「山西夫子」と呼ばれる。孔子が道教の廟で関羽と共に祀られるように、儒教の廟でも関羽の像が安置される。沖縄の久米至聖廟のように、同じ敷地内で孔子や弟子・後継者たちを祀る「大成廟」、別個で媽祖九天応元雷声普化天尊、関羽と龍王(個人名は不明)を祀る廟(同じ建物内に「天后廟」「天尊廟」「関帝廟」「龍王殿」のスペースを設ける形)を祀る廟堂を配置する、という形もある。


仏教

荊州で死したのち、当地の玉泉山にて「山の王(山神)」のような存在となっていた関羽が天台宗の開祖・智顗と出会い、関羽が仏教の守護神とされる伝承がある。仏教寺院を守護する「伽藍神」としての関羽は「伽藍関菩薩」とも呼ばれる。


天台宗はで伝教大師最澄によって日本に持ち帰られるが、関羽信仰は継承されず、伽藍神の役割は日本の神々が担う形となった。

日本における関羽信仰の最初の例は最澄の時代から6世紀ほどくだった時代の足利尊氏とされている。なお、尊氏は特に臨済宗系の寺院と縁の深い人物である。禅系の寺院以外だと、日本仏教での関羽信仰はあまり確認されていない。


18世紀頃よりチベットにも関羽信仰が伝わり、西域・中央アジアで尊崇される英雄ケサル王(チベット語では「ゲセル(Gesar)」と発音)とも習合、チベット仏教絵画「タンカ」にも描かれる存在になった。


巫教

朝鮮においては豊臣秀吉による侵攻がきっかけとなって関羽信仰が持ち込まれた。文禄・慶長の役において、明からの援軍が来朝した際、関羽を神として信仰する習慣ももたらされた。

伝承によると関羽の霊が戦場に君臨し、日本からの軍勢を何度も退けたのだという。

朝鮮には「帝」の称号を持つ君主が居なかったため王を超える名で呼ぶことを憚り「関王」の名で廟が建てられた。明の皇帝・神宗(万暦帝)の援助で東廟(東関王廟)、西廟と北廟が建立されている。明の時代に建てられた関王廟は中国と朝鮮の様式を統合した意匠で建てられており、朝鮮半島の伝統宗教(巫教)に基づく宗教儀礼が執り行われてきた。

関羽は「関項将(クワヌジャン)」とも呼ばれる。巫教の宗教施設「巫堂」の守護神であり、儀礼を経て万神(マンシン、巫女)等のシャーマンに憑依する「身代(モムジュ)神」の一柱ともされている。


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