プロフィール
生年月日 | 1984年5月30日 |
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性別 | 牡 |
父 | ノーザリー |
母 | イーデンマッチ |
母の父 | マッチウォン |
競走成績 | 25戦7勝 |
主な勝ち鞍 | 平成元年武蔵野S(当時オープン特別)/第1回テレビ埼玉杯(1991年) |
血統
父はノーザンダンサー直仔種牡馬のノーザリーだが、実はこの馬は極めて気性の激しい種牡馬でも有名だった。その気性の激しさ故に誰も近寄らせず最期も安楽死処分にできなかったくらいである。(顔に癌ができてしまい苦痛に悶え苦しみながら転倒死した)とはいえ、種牡馬成績そのものは悪くなかった。アメリカに残してきた代表産駒はエイコーンSを制したキュープコイズジョイ、日本での代表産駒は中京記念を制したパワーシーダー、阪神牝馬特別2着2回の成績を残し、後に種牡馬エイシンサンディの母となったエイシンウイザードである。
戦績
(馬齢表記は旧年齢表記)
4歳時
デビュー戦は1987年1月5日…金杯の日である。折返しの新馬戦で勝利し、3戦目の共同通信杯4歳ステークスで初重賞挑戦も6着。自己条件に戻って勝利し第47回皐月賞に挑んだものの6番人気14着と惨敗した。その後はNHK杯(現NHKマイルカップ)で日本ダービーへの出走権利取りに挑戦したものの9着に沈みレインボーアカサカのクラシックはここで終わった。以降は自己条件戦を歩み1400万条件級まで出世している。
5歳時
むらさき賞を勝利しオープン級に到達。七夕賞では1番人気に押されたものの同期の牝馬コーセイの5着に終わり1400万条件に降級。ここからやや成績が停滞する。
6歳時
自己条件の初富士ステークス、格上挑戦のバレンタインステークスを続けて3着と勝ち切れないレインボーアカサカに対し陣営は一つの決断を下した。ダート路線への転向である。ダート戦への出走は5歳時の白富士賞以来だがこれが「吉」に出た。転向初戦の東風ステークス勝利をきっかけに、勝ち切れなかった鬱憤を晴らすかの如き走りで怒涛の3連勝を決めてあの第25回札幌記念に臨んだ。
第25回札幌記念
レインボーアカサカの鞍上は乗り替わりで安田富男騎手に決まっていた。安田騎手にとっても中央競馬全競馬場重賞制覇という史上初の記録が掛かっていたのだが、安田騎手は前日に負傷のため急遽根本康広騎手に乗り替わりとなった。調教でも全く騎乗したことがないという緊急コンビではあったが、それでも2,1倍の大本命に押された。しかし…
スタート時にタイミングが全く合わずゲートに激突。痛みに悶えているところでゲートが開かれたため大出遅れとなった。結果は12頭立て1番人気で12着だった。
札幌記念以降
当時のダート戦線で安定勢力ぶりを発揮。ブリーダーズゴールドカップでは地方最強馬フェートノーザンの4着と奮闘。以降、勝ち切れなくとも根岸ステークスとフェブラリーハンデ(現フェブラリーステークス)で3着の成績を収めている。そして1991年より活躍の場を船橋競馬場に移した。
船橋在籍時
移籍2戦目に出走した第1回テレビ埼玉杯(現テレ玉杯オーバルスプリント)を制し通算27戦目で待望の重賞ウイナーに輝いたが以後低迷。年末の東京大賞典で最下位に終わり引退した。
余談
・120億円事件以前の1番人気大出遅れ大惨敗とくれば、必ず名前が挙がるのがレインボーアカサカだった。
・「札幌記念なのにダート?」と思われるかもしれないが、当時芝コースはまだ建設中で翌年より札幌競馬場でも芝の競走が開催されるようになった。
・第25回札幌記念でレインボーアカサカに騎乗予定だった安田富男騎手の中央競馬全競馬場重賞制覇記録は1996年に開催された札幌スプリントステークス(現函館スプリントステークス)においてノーブルグラスで勝利し達成。リーチが掛かってから9年目だった。レース後は「トミオ」コールでファンから祝福を受けた。