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篠原泰之進の編集履歴

2022-02-06 22:09:18 バージョン

篠原泰之進

しのはらたいのしん

新撰組隊士(諸士調役兼監察、柔術師範)、御陵衛士、赤報隊二番隊

概要

文政11年11月16日(1828年12月22日) - 明治44年(1911年6月13日)

筑後久留米藩出身で豪農および石工業者である篠原元助の長男として生まれる。幼時より武芸を好み、久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学び、弘化2年(1845年)、良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。安政4年(1858年)、有馬の江戸藩邸勤番に伴って上京し、北辰一刀流を学ぶ。桜田門外の変の影響を受け、翌月に藩邸を脱出し、尊王攘夷の志を抱いて水戸に滞在する。文久元年(1861年)、江戸の揚心流柔術師範・戸塚彦介のもとに潜伏した後、旗本(講武所柔術師範)・窪田鎮勝のもとに滞在して大攘夷論の影響を受ける。翌文久2年(1862年)、大阪や京都にて尊攘志士と交わり、のち諸国を巡り文久3年(1863年)頃、後に御陵衛士となる服部武雄加納鷲雄佐野七五三之助と出会い交流を深め同年10月イギリス人3名が税関に乱入したため、縛り上げて海岸に放置する等の暴行事件を起こして江戸に潜伏する。この頃、伊東甲子太郎と交遊を深める。


元治元年(1864年)10月、隊士募集のため江戸に来た藤堂平助の仲介で伊東や三木三郎ら計7名が新撰組加盟を前提に上京。ただし篠原だけは大阪の谷道場に滞在後、慶応元年(1865年)に加盟し、諸士調役兼監察・柔術師範を務める。近藤勇や伊東に重用され、慶応2年(1866年)の長州征伐後の訊問使の一人として広島に下向している。


慶応3年(1867年)3月、伊東が前年崩御した孝明天皇の墓所を守る御陵衛士を拝命し、篠原もこれに加わり計15名が新撰組を脱退した(御陵衛士拝命は、篠原の尽力であったとされる)。この頃、秦河内と称する。しかし同年11月18日(12月13日)に伊東が七条油小路にて大石鍬次郎ら数名に暗殺され、その遺体を引き取るため藤堂、三木ら計7名で向かい新撰組と交戦する。(油小路事件)

油小路を脱出後、薩摩藩邸に匿われ、12月18日、篠原ら御陵衛士の生き残りは伏見街道にて近藤を襲撃する(近藤を撃ったのは自分だと後に証言している)。

明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。戊辰戦争では赤報隊に加わって投獄された後、釈放され、軍曹を拝命して会津戦争や北越戦争で戦功を上げた。


維新後は秦林親と改名。明治2年(1869年)に弾正台少巡察、明治5年(1872年)に大蔵省造幣使の監察役。のちに実業家に転身したものの、成功はしなかった。晩年はキリスト教に入信する。明治44年(1911年)に東京市青山にて84歳で死去。


創作

第一章の『油小路の決闘』では主人公を務める。

この中の篠原は情に厚く照れ屋で人間味があり、普段から水で耳を洗う癖が仇となって中耳炎で死去したことになっている。

1998年のドラマ版で船越英一郎が篠原を演じた。


  • 影踏み鬼~新撰組篠原泰之進日録~(葉室麟)

篠原泰之進視点の作品。

新撰組の栄光と崩壊。赤報隊に身を投じた後もしぶとく動乱を生き抜いた彼の半生を描く。


モデルにしたキャラクター

篠原くん

篠原進之進


関連タグ

新撰組 御陵衛士 赤報隊

伊東甲子太郎

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