概要
マツダは1970年代から、マツダオート東京を母体とする『マツダスピード』が主体となってル・マン24時間にワークス体制で参戦していたが、レギュレーションの変更により1990年をもってロータリーエンジン車の参戦が不可能になってしまうことになった。
それに向けて開発されたのが前身となる787である。
しかし787はストレート重視でセッティングされていたため、サルト・サーキットのユノディエールというストレート区間に新たに設けられたシケインカーブに対応しておらず、マシンの不調もあってリタイア。旧型の767Bが20位という残念な結果に終わってしまった。
ところが、各社が新規定に対応したマシンが用意できないということになり、翌年の1991年も延長してロータリーエンジンの使用が認められることになった。これが本当に最後のチャンスとなったマツダは787に大幅な改良を施し、787Bとして満を持して投入した。
スペック
R26Bと名づけられたエンジンは、このマシンのために開発されたレース専用エンジンである。
4ローターで排気量は2,616 ccの自然吸気(NA)。これをミッドシップ(MR)に搭載した。
最高出力は700馬力で、回転数は9,000rpmに抑えられていた。これは当時これ以上の回転数に長時間耐えられるトランスミッションがなかったためである。
トランスミッションはポルシェ962Cのものを上下逆さまに装着した。
シャーシはカーボンモノコック製となり、一つ前の767よりも軽量化が図られた。
、あたコーナーリングの増えたサルトに合わせてワイドトレッド化されている。
マツダスピードの数年前からの根回しにより、重量が他の旧規定車両より100kg近く軽くされていたのも大きな武器であった。
優勝までの軌跡
787Bはテストウィーク中にマシンに大打撃を負ったが、チームオペレーションをしていたフランスのオレカが撤退しようとするマツダを必死に説得し、1週間の突貫工事と30時間のテストで見事に修復させた(余談だが壊れたレーシングカーを決勝で通用するレベルまでに修復するのは、マシンに相当精通していないと不可能であることから、公式には明言されていないものの、オレカもマシン開発に深く関わっていた可能性が指摘されている)。
1991年はSWC(スポーツカー世界選手権)へフル参戦することがル・マンへのエントリーを得るための条件とされた。その分参加コストは重くなったため、トヨタは新規定車両開発とWRCに注力して不参加、日産も組織的紛糾により参戦を取りやめており、新規定車両のプジョー・メルセデス・ジャガーに唯一旧規定車両で挑むワークスとしてマツダは参戦した。
SWCはスプリントレースも含まれていたため、787Bは上記3ワークスに加えてプライベーターのポルシェやスパイス・エンジニアリングにも歯が立たなかったが、最初からル・マンだけに焦点を合わせていたマツダには関係のないことであった。
ル・マンは46台がエントリーし、予選通過したのは38台という状況で始まった。
最初は初参戦のプジョーが飛ばしていたが、これは「どうせ耐久性が無いからとりあえずデータだけ取ってリタイアする」作戦だったためで、案の定マシンは全て故障した。それ以降はメルセデス・ベンツ勢がリードし、ジャガーとマツダがそれを追うという状況になった。メルセデス勢は序盤で大きくリードして追撃をあきらめさせる作戦、WSPCで速さを見せていたはずのジャガーは燃費の問題でペースを上げられなかったため他車が潰れるのを待つ作戦をとった。その一方マツダは良好な燃費とペースで徐々に順位を上げていった。
このときマツダの秘められた戦闘力に気づいた2社は大慌てで情報収集をはじめたという。
そして4位につけた787B 55号車は更にペースアップを開始。3位に浮上した。それに気づいたメルセデスもマツダ以上にペースを上げた。これはル・マンのレジェンドでマネージャーを請け負っていたジャッキー・イクスの指示で、彼は「ドイツ人は下位とのマージンを必要以上に確保したがるから、こちらがペースを上げたら向こうもマシンに負担をかけてでもペースアップするだろう」と読んでいたからである。
案の定、メルセデスはミッショントラブルで次々ピットインして1台がリタイア、もう1台が5位に転落した。
こうしてトップに躍り出た787Bはその後も快調に走りペースを確保。最後もドライバーを交代させず、コース状況を知っているジョニー・ハーバートに3スティント連続で運転させるという作戦をとった。
そしてマツダは見事ル・マン優勝を果たした。そのほかにも2台目の18号車が6位、前年型の787 56号車が8位に入った。
しかし、長時間運転していたジョニーは激しい脱水症状で立つことができず、表彰台にあがることはできなかった。
ちなみに新規定車両クラスの1位は日本人トリオ(見崎清志・横島久・長坂尚樹)のドライブしたスパイスSE90Cであった。
787Bはル・マンで総合優勝した初の日本車であり、同時に長い間唯一の日本車としての優勝マシンであった。
ロータリーエンジン車としても初、他にもカーボンブレーキ搭載車としても初であり、まさに快挙づくめであった。
トヨタは翌1992年に、日産は1996年にル・マンに復帰するも、長らくマツダの栄光の再現を為すには至らなかったため、787Bは長きに渡り日本車の唯一の優勝車として君臨していた。
そして2018年にTOYOTA GAZOO RacingのTS050 HYBRIDが中嶋一貴、小林可夢偉のドライブで1・2フィニッシュを達成。日本人による日本車の1・2フィニッシュを達成し、27年もの間、唯一のル・マンを制した日本車であった787Bにようやく同郷の仲間が加わることとなった。なおTS050のオペレーションを支援していたのは、奇しくも787Bと同じくオレカであった。
その後の787B
ル・マンで優勝した55号車はマツダ自身の手で動態保存されており、時折サーキットイベントなどで走行している。普段は広島県にある「マツダミュージアム」に展示されている。
余談ながらマツダが販売するRX-7用エンジンオイルであるマツダスピードロータリー1の缶には55号車のカラーがデザインされている。
なお、55号車の保存に伴い、その穴を埋めるために3台目(202号車)が制作され、国内の耐久レース(JSPC)に参戦した。特徴は55号車とは逆のチャージカラーに塗装され、ヘッドライトがなかったことである。
202号車はその後55号車の部品取りになっていたが、2009年にレストアされ、現在は他車とともに動態保存されている。
また、小樽市総合博物館には2015年まで55号車の予備車が保存されていた。(小樽交通記念館時代に当時現存最古の1934年製マツダオート三輪をマツダスピードで修復した縁で貸し出されたらしい。現在はマツダ本社に返還。)
2011年のル・マン再走
2011年、優勝から20周年を迎えた787Bはル・マン主催者側からデモ走行が提案された。1台だけでのデモランは異例の待遇だった。しかし、この頃の55号車は老朽化が激しく、ほとんど走行できるような状態ではなかった(走行しない展示は行われていた)。マツダはこれに応じるかギリギリまで決まらなかったが、なんとかGOサインが出たのは東日本大震災の一週間前であった。
すったもんだあったが787Bはマツダ自身の手でフルレストアされ、優勝当時の性能を取り戻した。安全性を考慮してブレーキがスチール製に変更され、「がんばろう日本」のステッカーが追加された以外は当時のままとなった。
そして来る6月11日、ジョニー・ハーバートの運転で787Bは20年ぶりにル・マンを走った。
ほかにも数台のレプリカが作られ、ル・マンをはじめとする各地で展示されている。
エピソードなど
- 55号車のあのカラフルな塗装はスポンサーのレナウンがそれまでの惨敗ぶりから「こんなんじゃ勝てる見込みがないな・・・ならば、とにかく目立て!」という指示から生まれた。
- 787Bは前年の状況からほかの車両よりもレギュレーションは緩く特に重量面では有利だった(他車が950~1,000kgに対し787Bは830kg。ちなみに改良による重量増は差し引き0に近い)、しかし排気量や出力では他社よりも劣っており、787Bは常に全開で走行していた。
- 優勝に貢献したジャッキー・イクスにマツダはボーナスを渡そうとしたが、彼は「私はマツダを優勝させるために契約したのだから、優勝したからといってボーナスを貰う理由は無い」と断った
- レース終了直後の787Bを分解したところ、まだ500kmくらいの耐久レースならこなせる状態だったという。
- 他のグループCカーとは違いグランツーリスモ3から初収録された。その後もグランツーリスモ4までは優勝当時の姿で、5、6ではレストア後のモデリングで収録され、2018年7月末にGTSPORTでルマン優勝当時の姿で復活収録された。