潜水空母
せんすいくうぼ
イ-四〇〇号
経緯
このイ-400はそういった目的の延長で計画された。
目的とはズバリ『従来の潜水艦の航続距離よりも、さらに遠方で敵艦隊を攻撃する』というものである。
計画を進めるうちに「これなら敵本土も攻撃出来るのではないか」という話になり、
1944年12月30日、400号最初の艦である「イ-400」が竣工となった。
大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦直後から、米国本土攻撃作戦は計画されていた。
攻撃機や風船爆弾などの作戦は実行され、潜水空母が関わる最初の作戦案はパナマ運河攻撃であった。
建造と作戦の計画発案者は不明だが、有力説では山本五十六ではないかと言われる。
45年1月8日、2番艦である「イ-401」も竣工。
両艦ともに度重なる空襲にもめげずに完成し、45年の3月には訓練も終了していた。
しかし肝心の艦載機(特殊攻撃機『晴嵐』)の格納筒は空。
製造工場が破壊され、完成が遅れていたのだった。
さらにこの時点における日本の戦局は劣勢で、列島周辺の制空権・制海権どちらも失っていた。
実戦へ
6月、ウルシー環礁のアメリカ海軍基地への攻撃が決定される。
これに先駆けてイ-13、イ-14がトラック諸島に偵察機を輸送した。(光作戦)
この作戦の最中、巡洋艦インディアナポリス撃沈で密になっていた警戒線にイ-13が接触。
必死の回避もむなしく、イ-13はあえなく撃沈されてしまった。
一方イ-14の方は輸送に成功し、かくしてトラック諸島に偵察機が到着したのであった。
これにより、作戦は「8月17日に参加各艦が集合の上で決行」と決まった。
参加艦は残ったイ-14とイ-400、イ-401である。
・・・と、決行を目前にした8月15日に玉音放送によって日本はポツダム宣言受諾が伝えられた。
即ち、終戦である。
こうしてイ号潜水艦の各艦は艦載機(もちろん『晴嵐』の事)などの装備を海中に投棄し、
それぞれアメリカ軍に拿捕されることとなったのである。
接収されたイ-400、401はその後ハワイで標的艦として沈没。
未完成だったイ-402は調査の上、
同じく接収された他の潜水艦(大小23隻)と共に五島列島の沖合で海没処分とされた。
(この23隻の中には、インディアナポリスを撃沈したイ-58も含まれていた)
ソ連に潜水空母の秘密が漏れぬよう、詳しい位置は機密とされた。
現在では、公開された資料と海中調査により潜水艦の位置は特定されている。
長らく封印されてきた、帝国海軍の栄華の墓標である。
現実
『潜水空母・イ-400の戦闘力が如何ほどのものだったのか』は、
不運にも実戦の期を逃し続けたために不明である。
航空機搭載可能潜水艦という発想は斬新であり、
それを実用化できた技術は現在でも高く評価されている。
(他の国でもテストはされたが、成功はしなかった)
しかし弱点として、
搭載機格納の為の大型化が隠密性を削ぐことになった。
(潜水艦いちばんの特徴が「隠密性」である)
対潜哨戒機や哨戒艦、レーダーにソナーなどが大幅に進歩し、
並みの潜水艦ですら見つかり易くなってしまったのだ。
これらの発展に対する対策は手付かずのままだった。
搭載機発進には、潜水艦を海面に浮上させて格納庫から搭載機を甲板に出し、
装備を組み立ててから発進させた。
収納の場合は潜水艦のそばに着水させて艦内の小型クレーンで回収、
装備を取り外して格納した。
手間や時間がかかる上、この間に敵に発見される恐れは十分あり、実際に運用できたかは疑問視されている。
ただし『搭乗員のみ回収・航空機は放棄』とした場合なら素早く潜水できる。
当然ながら「母艦」としての機能はその一回のみに限られ、二度と攻撃機の発進は行えない。
また、晴嵐もフロートの投棄が可能だったようで、その際も艦内収容は不可能となる。
(着水が不可能なため)
どちらにしても、この潜水空母はゲリラ的な活動に限られてしまい、
戦局を覆す活躍はとうとう出来ず終いだった。
潜水艦では搭載量が限られてしまい、運用にも様々な制限が課せられてしまう為だ。
攻撃機も数をそろえられず、その攻撃機さえ小型で搭載量・航続距離も限られる。
これでは有効な打撃など望むべくもなく、狙うなら敵中枢をピンポイントで狙うしかない。
有効な選択肢としては核兵器の搭載が考えられるが、
これも当時の日本には望むべくもなかった。
結局この手の潜水艦は、のちの『戦略ミサイル原潜』に集約される事となった。
これなら搭載スペースは最小限にでき、際限のない大型化は避けられる。
実際、冷戦の中で巡航ミサイルや弾道ミサイルを搭載した大型潜水艦が開発され、