概要
領地の広い藩は都市名で呼ばれる場合と広域地名で呼ばれる場合があり、長州藩は萩藩ともいう。どちらが正式名称かは決まっていない。長州とは長門国のことだが周防国も領地に含まれている。藩庁は萩に置かれ、幕末に山口に移転した。
支藩として長府藩・徳山藩があった。さらに長府藩には清末藩という支藩があり、「支藩の支藩」という大変珍しい形態となっていた。周防国に岩国藩という藩があったが、この藩は関ヶ原の戦いで家康と内通していた吉川広家の領地である。普通に考えれば敵の総大将の領地は全没収されてもおかしくないが、毛利が2か国を残されたのは吉川のおかげとも考えられている。この出来事が話をややこしくしてしまい、岩国藩は長州藩の支藩なのか長州藩の一部なのかはっきりしないというややこしい状態になってしまった。幕府は藩として認めていたが長州藩は家臣の領地として扱っていた。
戦国時代に中国地方の大半を領有した毛利家が藩主を務める。初代藩主・毛利輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将となるも全く動かなかった。西軍が負けたため徳川家康に領地を減らされてしまい長門と周防の2か国のみとなってしまった。
これが原因で、臣下が倒幕について問い、藩主が「まだ早かろう」と答えるのが正月の恒例行事になっていたと言われている。
幕末には良くも悪くも歴史の主役となる。京では禁門の変(蛤御門の変)を起こし敗北。日本で唯一攘夷命令を実行し敗北。戦後の交渉で彦島を外国に取られそうになり、高杉晋作が古事記を引用し外国人には訳のわからない発言をしてうやむやにした。
暴走する長州藩を幕府が許しているはずはなく1864年、幕府は長州征伐に乗り出した。(なぜか改易にはしなかった)下関戦争で敗北してボロボロの長州藩には対抗することなどできず全面降伏した。1865年、藩内の情勢の変化により再び長州征伐が行われた。しかし、統制の取れた長州と士気の低い幕府とでは勝負にならず、今度は幕府が惨敗した。
この頃の藩主・毛利敬親は何を言われても「そうせい」と答えていたことから「そうせい侯」と呼ばれていた。藩主であるがゆえに様々な意見の飛び交う幕末の動乱の中では逆に何もできなかった。「そうしないと殺されていた」と後に本人が語っている。
歴代藩主
- 毛利秀就
- 毛利綱広:秀就の四男
- 毛利吉就:綱広の長男
- 毛利吉広:綱広の次男
- 毛利吉元:毛利秀元(毛利元就の孫で支藩・長府藩主)の曾孫
- 毛利宗広:吉元の五男
- 毛利重就:秀元の三男・元知(支藩・清末藩主)の孫
- 毛利治親:重就の四男
- 毛利斉房:治親の長男
- 毛利斉熙:治親の次男
- 毛利斉元:重就の六男・親著の長男
- 毛利斉広:斉煕の次男
- 毛利敬親(慶親):斉元の長男
- 毛利元徳:毛利就隆(毛利輝元の次男で支藩・徳山藩主)の玄孫・広鎮の十男