はじめての〇〇
アメリカ海軍は1936年、
艦上戦闘機を近代化すべく、単葉・引き込み脚・密閉式コクピットを持つ戦闘機を要求した。
ブリュースター社はこの要求に対し、XF2A-1試作機を提出して応えた。
(グラマン案はのちにF4Fへと発展する)
XF2A-1は1937年12月に初飛行、翌1938年1月から評価が始まっている。
同6月にはF2A-1が66機発注され、更に翌年(1939年)から引き渡しが開始された。
ただし実際に納入されたのは55機であり、空母「サラトガ」の海軍第3戦闘航空団(VF-3)に10機が配備された。
残りの44機はフィンランドへの支援物資として各種制式装備などを外し、
もしくは格下げ品に交換して「B-239」として輸出された。
(残り1機の行方は謎)
単葉・引き込み脚・密閉式コクピット
当時、1930年代には近代的な設計とされていた3点セットである。
単葉=主翼は一枚だけ。複葉機よりも揚力では落ちるが、空気抵抗が少なくなる。
引き込み脚=車輪を収納可能。空気抵抗が少なくなる。
密閉式コクピット=コクピットのまわりを完全に囲っている。空気抵抗の乱れを抑えられる。
どれも設計や、機器の発展が無ければ出来ない事である。
中でも車輪については引き込み装置の軽量化・信頼性の向上が必須であり、
どの国も苦心を重ねて完成させていった。
改良と困難の山道
1940年9月、エンジンの性能強化などを含んだF2A-2の引き渡しを開始。(43機)
1941年7月、防弾装備を拡充したF2A-3が引き渡される。
当時、すでにドイツ戦闘機に対抗できないことが判っていたが、
イタリアや日本の戦闘機への過小評価もあってイギリス・ベルギー・オランダへ売却された。
特にイギリスは『バッファロー』と名付け、前述の理由で地中海やシンガポール・マレーシア(マレー半島)に配備している。
配備されたイギリスやオランダのバッファローはご存知の通り、日本の一式戦闘機やゼロ戦により大損害を負っている。さすがに旋回格闘戦では劣勢を否めず、その鈍重さ・そのスタイリングから『ビヤ樽バッファロー』と呼ばれた。
最後の実戦参加は1942年6月、アメリカ海兵隊VFM-221(第221海兵隊戦闘航空団)がミッドウェー海戦に参加している。日本のゼロ戦に対し、果敢にも格闘戦を挑むが19機中13機を失う損害を出している。
いすれにせよ太平洋では『強い戦闘機』とは評価されていない。
これはパイロットがF2Aが本来得意とする一撃離脱戦法を使わず、
当時の定石である格闘戦に固執していた事も大きい。
これ以降、アメリカでは機種が更新されてF6FやF4Uが配備されていく事になる。
すっかり陰に隠れてしまったF2Aだが、今度は予想もつかない方面で注目される。
フィンランドに輸出されたF2A-1が思いもよらぬ活躍を見せるのだ。
戦う猛牛と赤旗の軍勢
「冬の戦争」
事態は第二次世界大戦以前にまでさかのぼる。
緊張を高める独ソ両国の間に広がる北欧・東欧諸国には、
少しでも優位に立とうとする両国が勢力を伸ばそうとしていた。
フィンランドにもその手は広がり、ソビエトによる事実上の属国化が突き付けられた。
この要求は到底受け入れがたいものであり、
フィンランド政府はなんとか譲歩の道を探そうとするが、1939年11月3日に交渉決裂。
同11月26日、「マイニラ砲撃事件」(自作自演の攻撃)勃発。
11月30日、この事件を口実にソビエトはフィンランドへの侵攻を開始。
『冬戦争』のはじまりである。
翌12月1日、ソビエト占領下のテリヨキ市街にて亡命フィンランド人、オットー・クーシネンによる事実上の傀儡政権「フィンランド民主共和国」を樹立。フィンランド国内にいる共産主義者を離反させようとした。
しかし「スターリンの大粛清」から逃れた者たちによってソビエトの実情は知れ渡っており、画策は失敗に終わった。『危険人物たち』はすべて牢屋に繋がれており、国内の活動も違法となっていたのだ。
むしろ残った社会主義・共産主義者たちは団結し、
『投降してもきっとシベリアで殺される。どうせなら国のために死ぬまで戦おう!』
と決意を高める結果となった。
こうして士気・戦意おうせいに団結したフィンランド軍は各所でソ連軍部隊を撃破。
銃も揃わない兵士たちは倒したソ連兵の銃を奪い、またソ連兵を倒していった。
ついでに言うと軍服すら揃わなかったのだが、盛んなゲリラ戦術でもってソ連軍を追い詰めていった。
この勇敢な戦いが知られるのは、外国の特派員が『雪中の奇跡』として報道してからである。
これを受けて世界中から支援が寄せられたが、決定的な有利には至らなかった。
中には援軍でもって介入しようとする動きもあった。
だが、戦争に巻き込まれる事を嫌ったスウェーデン・デンマークにより拒絶されてしまう。
(この二国の領土・領海を通過しなければフィンランドには行けない)
支援の全ては遅すぎ、また少なすぎた。
1940年3月13日、消耗しきったフィンランドはモスクワ講和条約に調印。
これにより国土の1割と、産業の一大中心地を割譲させられる事となった。
独立こそ守ったものの、その代償は大きなものだった。
領土を失い、またナチスドイツのスカンジナビア侵攻やスウェーデンの中立維持により、
フィンランドは国際的な立場を失っていく。
アメリカなど連合国との物理的距離も離れ、枢軸国と共産国家にも囲まれて、
中立の維持も無意味となっていった。
結局、軍事援助を欲したフィンランドはナチスドイツに接近し、
失地奪還をめざしてソビエトと敵対する道を選ぶのである。
「継続戦争」
『冬戦争』当時の諸国の対応については冷たいものがあった。
周辺のノルウェーやスウェーデンはソビエトとの関係悪化を恐れて中立を維持し、
(『他人事を決め込んだ』とも)
文字通りフィンランドは孤立無援に置かれたのだ。
1940年8月、フィンランド政府とナチスドイツは密約を結び、国内のドイツ軍駐留を認める。
この選択はフィンランドをすっかり枢軸国とする事になる。
1941年6月22日、ナチスドイツは「バルバロッサ作戦」を発動。
『独ソ戦争』のはじまりである。
当初フィンランドは中立を宣言していたが、国内から攻撃に対してソビエトが反撃。
6月26日、フィンランドはあくまでもナチスは無関係とはしながらもソビエトに宣戦布告。
『継続戦争』のはじまりである。
連合国はこれは不当として、イギリスなどはフィンランドに宣戦布告。
こうして「枢軸国フィンランド」の対ソ第二次戦争は開始された。
1941年7月、フィンランドは『失地カレリア』に突入。
ここからがようやく『バッファロー』の出番である。
フィンランド空軍は各種雑多な「二線級戦闘機」(時代遅れ品)で構成されていたが、
・ソ連空軍は比較的低高度での作戦が多かった
・当初はソ連パイロットが未熟で、冬戦争中に技量を高めたパイロットの餌食になった。
などの理由で、バッファロー等でも十分活躍できたのである。
さらに空でもゲリラ戦法を実践。
『2~3機撃墜したら後は逃げる』ことを徹底し、損害を抑えつつ戦果を伸ばした。
元々性能的には二流だったが、12.7㎜機銃4連装の威力で敵を撃墜してまわったのだ。
8月末にはこうした激戦の末、かつての国境を取り返した。
以前の苦戦とは裏腹に、経過は好調であった。
(ただし、相変わらず装備は脆弱)
だが1941年末、ナチスドイツのモスクワ攻略作戦『タイフーン作戦』が失敗。
戦争はこう着状態となり、もとより失地奪還以上の望みが無かったフィンランドも防衛体制をとった。ナチスドイツの支援はしつつも、以降の積極的な攻勢は控えたのだ。
1943年、『スターリングラードの戦い』でナチスドイツは大損害を出して敗北。
これ以降はフィンランドも講和を模索し始める。
だが、それはナチスドイツが許さなかった。
離脱の動きをくみ取ったドイツはフィンランドへの禁輸措置へ踏み切る。
すでにドイツ以外との貿易の無かったフィンランドは、たちまちモノ不足に陥った。
結局、戦争継続を条件に貿易を再開してもらうのだった。
1944年1月、ソビエトがレニングラードを奪還。
これによりフィンランドの軍事的価値も薄れる事になった。
レニングラードを脅かす価値が失われたのだ。
これを受け、政府も再び講和に踏み切ろうとする。
だが今度はソビエトが『講和の条件は領内のドイツ軍を独力で追い出すこと』という条件を提示。
これもまた受け入れがたいものであった。
なぜなら、先に連合国と講和したイタリアやハンガリーは直後にドイツ軍が全土を占領。
傀儡政権を立てられて戦争を継続するハメに陥った。
それ以上に『昨日の戦友』に銃を向けることは躊躇されたのだ。
仕方なくフィンランドは交渉を打ち切って防衛戦に協力。
だがソ連軍は驚くほどの「戦い慣れ」をしており、さしものフィンランドも苦戦を余儀なくされた。
「大粛清」で底に落ちた軍の質だったが、実戦で鍛えられて今や精強な軍勢になっていたのだ。
1944年6月9日、「ノルマンディー上陸作戦」発動。
これに呼応し、ソビエトでも全ての戦線で一大攻勢を敢行。
この作戦は「バグラチオン作戦」と呼ばれ、人類史上最大規模と言われる攻勢である。
もちろんフィンランド方面も苛烈な攻撃にさらされ、軍は大幅な後退を余儀なくされた。
当然、頼れるものはナチスドイツだけである。
リュティ政権は「最後まで戦争を離脱しない」との確約を武器に援軍を確保。
これを受け、ドイツから援軍・支援物資が続々と到着し始めた。
こうしてソビエトの侵攻を凌ぎ、講和までの時間を稼ぐための壮絶な防衛戦が始まった。
戦線は既にヴィープリ~クパルサーリ~タイペレを結ぶ線(VKT線)にまで後退し、
(つまり大幅に後退して失地した)
もはや一刻の猶予も無いのだ。
支援物資を与えられたフィンランド軍は尋常ならぬふんばりを見せ、
侵攻部隊のいくつかを全滅させる事でソ連軍の足を止めた。
だが、それすらも時間稼ぎ程度にしか過ぎなかった。
ぐずぐずしていたら敵は回復し、今まで以上の攻撃力で突破する事は必至なのだ。
すべては時間との勝負だった。
一方、ソビエトも「いつまでも小物に手間取っている訳にはいかない」と認識を改めていた。
効率が悪すぎるのだ。
大した資源も戦略的価値すら無いくせに、抵抗だけはやたらと強固なのである。
ソビエトの側も「あちらが降伏するのなら」と考えを変えつつあった。
講和にあたり、問題になったのはヒトラーとの確約である。
苦悶の末、リュティ大統領の辞任・マンネルハイム新大統領の就任という形に収まった。
「確約は前大統領の個人的なもの」として破棄することにしたのだ。
結局、国境線は「冬戦争」終結当時で確定し、その他にも多くの不利を被らなければならなかった。
その後、国内に残るドイツ軍を排除するための「ラップランド戦争」が起こった。
両者ともに「穏便な戦争」によって「列を乱さずに撤退」するはずだったのだが、
これを予期したソビエトの横やりや、
「裏切り者に銃を向けないわが兵」に業を煮やしたヒトラーが焦土作戦を指示。
かくしてラップランド地方は壊滅的打撃を受けてしまった。