現在の東京である。
タグとしてはおおむね江戸時代を舞台にした作品につけられている。
江戸城に勤務する徳川家直参の侍はほぼ全てが三河出身の旗本で、江戸開拓の歴史としては扇谷上杉家に仕えた太田道灌が有名であるが、実際として江戸が今日のような日本の中心地として機能するようになったのは無論ながら豊臣秀吉が徳川家康を移封して都市開拓を命じてからである。が、徳川家康はこの江戸という都市を余り好まなかった様子で、開拓が終わり徳川秀忠に家督を譲って徳川家による征夷大将軍の世襲制を早々に固めると西暦1607年、早々に幼少期を過ごした駿府(静岡県駿河市)へと移って大御所政治を確立する。
江戸時代になってからの侍という身分は嫡男さえ生まれていれば、余程の不始末をしでかさない限り知行取り上げお家断絶という事は無く(その代わりどれだけ仕事を上手くこなしても加増はない)、従って強い世襲制に移行した。もっとも、百姓が息子のない武家の婿養子となったり、小金持ちの町人が金を払って武家の株を買ったりすることもあったので、身分が完全固定されていたわけではない。
平和な江戸では多様な文化が花開き、現在の日本文化の代表である歌舞伎や寿司、俳諧、落語などの大衆的な文化が栄えるが、これはあくまで町人の文化であるのが面白い。[
ただし、戯作や浮世絵の創作、三味線や園芸などの芸事に手をだした武士も少なくはなかった。余芸が高じて、絵描きや原稿料で生計を立てるにいたった侍もいた。しかし、仮にも文武(儒教と武芸)に精進すべき侍が「低俗」な趣味や副業に熱中することは、あまり好ましいことではないと見られていたため、気楽な町民と違ってあまりおおっぴらにはできなかった模様である。
また、江戸では[国学]]、石門心学、蘭学などの学問も大衆化し、百姓や町人が武士と肩を並べて学び議論した(このような在野の学問に身分の差別はなく、学識があれば百姓も侍もみな平等であった)。このように庶民階級が文化や学問の中心となったのは、近代以前では稀な現象である。