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南部氏の編集履歴

2023-06-05 23:22:26 バージョン

南部氏

なんぶし

南部氏とは、日本の氏族の一つ。

概要

奥州盛岡八戸)に勢力を有したことで知られる氏族の一つ。

清和源氏の流れを汲む一族でもあり、氏祖は南部光行(信濃三郎、源義光の玄孫)。

甲斐国南巨摩郡南部邑(現・山梨県南部町)を由来とする。


鎌倉期から江戸末期に至るまで、700年弱に亘って同一の国や地域を領していた氏族の一つとしても数えられており、近世に入ってからも盛岡において一定の地位を保持していることで知られる。


歴史

鎌倉期~南北朝期

初代当主の光行は、平安末期に起こった奥州合戦に参陣し、その際の戦功を源頼朝に認められ、陸奥国糠部五郡を与えられた。これが奥州において南部氏が勢力を根付かせる最初のきっかけとなる。後に北条氏が鎌倉幕府の実権を握ると、南部氏の中からも南部実光(光行の次男)のように実質北条得宗家の御内人として扱われ、幕府内で相応の地位を得る者が出ている。


このように鎌倉幕府とも密接な関係を築いていた南部氏であったが、鎌倉末期に入り倒幕の機運が高まると、南部氏は幕府側と倒幕側へと分裂、南部氏の宗家である三戸南部氏は幕府側に付いたものの、根城(波木井)などの庶家は倒幕側として、新田義貞による鎌倉攻略に参加。その際の功が認められ、根城南部氏の南部師行は北畠顕家に従って奥州の経営に参画、八戸を根拠として三戸南部氏をも凌ぐ勢いを見せるようになった。

その後、建武政権の瓦解とそれに伴う南北朝動乱期への突入を経て、南部氏は根城南部氏や甲斐に残留した一門が南朝方に付く一方、三戸南部氏は足利尊氏の調略により北朝方へと転じており、一族の分裂状態はなおも継続されることとなる。


後の南北朝合一に際し、三戸南部守行は根城南部政光へと降伏勧告を行い、交渉は紛糾したものの最終的に政光が甲斐波木井を明け渡して八戸へと移ることで、一族間の内紛にも一応の決着が付けられることとなる。またそれに伴って南部氏の主導権も再度三戸南部氏に移り、根城南部氏は八戸氏を称してその指揮下に入ることとなった。


室町期~戦国期

室町初期の南部氏は守行、そしてその子の義政(守清)の元で勢力を拡大し、陸奥北部随一の大名へと成長を果たすが、その後は当主の短期間での交代が相次いだことから、安東氏や小野寺氏など競合する勢力の攻撃、大浦氏を始めとする一門の統制の失敗などもあって、次第に衰退へと転じていくようになる。


その衰退の歯止めをかけ、近世大名への脱皮を果たす格好となったのが、戦国期に活躍した南部晴政である。その父の安信の頃より勢力拡大への萌芽が見られていたとされるが、晴政はそれを引き継いで積極的な軍事行動を展開、安東氏との鹿角(現・秋田県鹿角郡)を巡る抗争にも勝利し、北は下北、南は北上中部に至るまでの広大な領域を支配下に収めた。この頃の南部氏の隆盛ぶりは、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどであったという。

しかしその一方では、有力庶家であった大浦氏や九戸氏との対立、晴政の従兄弟で養嗣子でもあった信直(石川信直)との内訌といった不安要素も抱えており、天正年間に晴政、そして実子の晴継が相次いで没すると、一門による大評定の末に信直がその跡を継ぎ(異説もアリ)、斯波や阿曽沼といった周辺勢力を降す一方で晴政在世時からの中央との繋がりの強化も図っているが、この時期大浦為信が津軽や外ヶ浜などを抑えてその勢力を確たるものとし、さらに豊臣政権への臣従をいち早く示したことで、大浦氏(津軽氏)の独立を許すこととなってしまう。


それでも信直は小田原征伐への参陣により、糠部を始めとする所領の安堵を豊臣秀吉から認められており、後に九戸政実の乱の鎮圧を経て和賀・稗貫の両郡も加増されたことで、9ヶ郡10万石が南部領として確定するに至った。


江戸期

秀吉薨去後、信直の跡を継いだ利直は徳川家康へと接近し、関ヶ原の戦いに関連して東北で発生した慶長出羽合戦でも、東軍側の最上義光の援軍として出兵しているが、前出の和賀・稗貫にて一揆が発生したためにその鎮圧に当たることを余儀なくされた。

ともあれ、関ヶ原の戦いを制した家康によって江戸幕府が成立するに至り、利直もそのまま所領を安堵されると共に盛岡10万石の城主として封じられ、以降の南部氏は幕末に至るまで盛岡藩主家として当地を治めていくこととなる。

文化年間には、蝦夷地警備の功を認められて20万石へと石高直しが行われたものの、それに伴って上昇した格式に見合うための様々な出費の増大により、慢性的な赤字体質に陥ることにも繋がった。この財政建て直しに尽力したのが、藩の勘定奉行を務めた新渡戸傳(新渡戸稲造の祖父)である。


幕末期、盛岡藩は戊辰戦争に際して奥羽越列藩同盟に与したため、戦後に当主の南部利剛が隠居に追い込まれ、家督を相続した嫡子の利恭も陸奥白石13万石に減転封された。利恭は後に白石藩知事を経て盛岡藩知事という形で旧領へと復帰するも、明治新政府への莫大な献金の調達に失敗した結果、知事職を辞して盛岡藩も廃藩に至った。


近世以降

明治前半の華族令の施行により、南部氏のうち旧盛岡藩主家は伯爵家に、分家の旧八戸藩主家・旧七戸藩主家は子爵家とされた。明治期の当主の一人で利恭の長男である利祥は陸軍に仕官し、日露戦争においても最前線で指揮を執ったが、出征先の井口嶺にて戦死を遂げている。

南部氏は昭和初期に一条家から婿養子(利英)を迎えており、以降現在に至るまでの当主は天皇家の血筋も引くこととなる。太平洋戦争が終結し華族制度が廃止された後も、多数の土地や財産を手放しながらも実業家に転身し、現在も盛岡にて一定の地位を保っている。


分家

南部氏の分家に一戸氏や七戸氏などの分家があり、盛岡藩主の一族に八戸藩主や七戸藩主の分家がある。


外部リンク

南部氏 - Wikipedia


関連タグ

清和源氏 東北勢 武家 大名 盛岡藩


前田利家:中部・北陸地方の戦国武将の一人。南部氏と豊臣政権との間を取り持ったことから、その恩を忘れないようにとの意を込めて利直以降の歴代当主の通字に、利家の「利」の字が用いられるようになったとされる

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