概要
1957年に次期主力戦闘機の選考のためにアメリカを訪れた三菱重工業の技術者が、企業・個人が所有し、自由に飛ばすことが出来る小型飛行機を目の当たりにし、「あれぐらいだったらうち単独でもどうにかなるんでね?」と思いついた(YS-11は実質国内の航空関係企業の共同開発)。そして帰国後に仲間達に「俺達が出来る範囲で、なおかつアメリカやヨーロッパでも通用するものを作ってやろうじゃないか!」とけしかけ、計画を始めたのだった。
基礎技術こそアメリカのものを参考にし、エンジンはフランス製のものを採用(後にアメリカ製のものに変更)したものの、それ以外は独自で開発をすすめた、のは良かったのだが、その元ネタの多くは、何と三菱が隠し持っていた軍用機の図面だったらしい。
1963年に初飛行、1987年までに762機が製造された。
なお、製造・販売方法に関してはかなりグダグダしたものがあった。外部リンクの方も参考に。ただそんなグダグダを乗り越えて700機以上も売ったのだからたいしたものである。
ただし、あくまでもアメリカやヨーロッパが販売の中心であり、日本へは防衛庁と朝日新聞・毎日新聞及び読売新聞くらいしか販路がなかった。仕方ないね。
武装型
一部の軍用型などに限るが、MU-2は武装を搭載することで軽攻撃機(COIN機)として運用することも可能だった(軽攻撃機仕様時のMU-2使用マニュアル)。
主に想定していた武装としては、500ポンド爆弾かナパーム弾を両翼に2発、あるいは左右の後部ドアにドアガンとして12.7mm機関銃を2丁と70mmロケット弾の発射器の搭載など。
陸上自衛隊に「LR-1連絡偵察機」の名称で配備されたMU-2にも、少なくとも1号機と2号機はドアガンとしてブローニングM2重機関銃を搭載可能だったようだ(3号機以降はM2を搭載するためのフェアリングが取り外されている)。
ロケット弾も試験的に搭載したことがあるとも言われているが、詳細不明。爆弾類は不明だが、残念ながら陸自のLR-1はすでに全機が退役しており、武装型のMU-2が日本の空を飛ぶことは二度とない。
戦後日本初にして唯一の国産軽攻撃機だったと考えると、中々感慨深いものがある。
なお、防衛庁(陸上自衛隊と航空自衛隊)以外での軍用機としての採用は、アメリカ・ニュージーランド・アルゼンチンの各空軍くらいであり、いずれも補助的任務のために使用されたに過ぎない。
外部リンク
関連タグ
HondaJet:ある意味後継機。