概要
1614年10月、大阪城を包囲した幕府勢は本多忠朝、真田信吉、佐竹義宣、上杉景勝、井伊直孝、榊原康勝、浅野長晟、藤堂高虎、伊達政宗、立花宗茂など軍勢は約20万。 家康と秀忠は茶臼岳に本陣を構えた。対する豊臣勢は真田信繁・後藤又兵衛・毛利勝永・長宗我部盛親・明石全登の大坂牢人五人衆、豊臣家重臣の大野治長、速水守久、木村重成など。織田有楽斎は合戦直前まで交渉に努めたが、開戦直前に退城した。
大阪城内では方針として治長の篭城派と、信繁の一気に城外へ攻める攻撃派に分かれ、結局篭城に決まった。幕府軍の先制攻撃を皮切りに両軍の戦闘が起こったが、堅城な大阪城は簡単には落ちず、一進一退を繰り返し、冬の寒さも重なって膠着状態に。信繁が城外に築いた要塞「真田丸」で幕府軍を攻撃し、追い返していた。事態打開のために家康は新開発させた大砲を実戦投入。新大砲は射程距離が格段に向上しており、弾丸は大阪城本丸にまで直撃し女中達にも被害が及び、驚いた淀殿はこれを機に和睦に応じた。
和睦を結んだ両者は、条件として大阪城三の丸を壊し、堀を埋め立てることとし、秀頼の身の安全と所領安堵が約束され、12月に休戦協定が結ばれた。
ところが幕府側は取り決めと違って二の丸の外堀までも埋め立ててしまい、大阪城の守りは骨抜き状態になってしまった。この結果、大坂城にいた浪人達は、戦に勝ち目は無いと見なし半数近くまでが去ってしまう事になるのだった。
関連タグ
大坂冬の陣→大坂夏の陣