概要
トヨタが2012年~13年に、今も開催されている「FIA世界耐久選手権」(WEC)及びル・マン24時間レースに参戦する為に製造した、国産車ブランドとしては初のハイブリッドプロトタイプレーシングカーである。
開発はTMG(トヨタ・モータースポーツ有限会社、現在のTGRヨーロッパ)が、チームオペレーションはTMGとオレカが共同で担った。
当時のTMG社長の木下、及び開発責任者の村田はいずれも1990年代グループCのTS010でル・マンに関わっていた経験を持つ。
名称はTS010からの系譜で、TSは「TOYOTA Sport」の略である。
またカーナンバーは「TS010からの戦いは終わっていない」という願いを込めて7・8号車となった。
復帰までの道のり
トヨタは1999年のル・マン24時間を最後(レベリオン・レーシングやロータスのGTマシンへのエンジン供給を除く)にF1へ転身し、耐久レースから遠ざかっていた。
しかしF1に参戦している最中からトヨタはハイブリッドを用いてのル・マンへの復帰を画策をしており、00年代後半にル・マンに参戦した童夢の「S101」はTMGとの協議の中で誕生したマシンであったことが「AUTOSPORT」誌の2023年1月号で明らかになっている。
紆余曲折あって童夢とではなくTMG単独で開発することになり、F1撤退後の2010年頃にル・マン復帰を正式表明して産まれたのがこのマシンである。
苦難の道のり
いざマシンが完成すると、かなりの「想定外」とも言える出来事が起きまくった。まずは規則で「4輪回生を行う場合は、時速120km/h以上でなければいけない」「エネルギー回生/力行は前輪または後輪のどちらからしかできない」と突然付け加えられ、急遽フロントのモーターをぶっこ抜いたりしていた。
そして、テスト走行でも、問題は頻発していた。まず、想定していた距離で止まれないと言う問題から始まり、「耐久レースを走る」という事で無くせないヘッドライトを、消費電力が少ないからという理由でLEDにしたら思った以上に暗かったりと、この世界が「一筋縄」で行かないことを物語っている。
そして極めつけは、協調回生ブレーキと油圧ブレーキの変則時の制御である。
回生ブレーキを効かせている間はシャフトに動力が伝わっている状態なので、ギアを変速することができない。そのためギアシフトの瞬間は回生ブレーキも切ることになるが、たとえば6速を3速に落とすまでに連続して4回もギアを切り替えれば、たたでさえ車両姿勢が不安定になりやすいブレーキングで車両に掛かるGの変化はすさまじく、簡単にスピンしてしまう。
シミュレーションではうまく行っても実践ではこれがなかなかうまくいかず、ドライバーからは「俺を殺す気か!!」とまで言われたと村田は回顧している。
そんな感じで色々あったが改善を重ね、何とか2012年の世界耐久選手権への参戦に漕ぎ着けたが…
2012年
思わぬ事態
そして迎えた、2012年FIA世界耐久選手権第2戦、スパ6時間レース。本来ならここに「トヨタレーシング」のマシンはエントリーしていたはずだった。実はこのレースの前のテスト走行で大クラッシュをしてしまい、モノコックにダメージを受けて急遽エントリーを撤回する事態になってしまったのだ。幸い、この時のドライバーだった中嶋一貴選手は無事である。
なお後に2度のスーパーフォーミュラ王者となる石浦宏明もTS030で参戦する予定であったが、運悪く腰を痛めてテストに参加できず、そのままル・マンとは縁が途絶えている。
カムバック・ル・マン
そんな緊急事態から、迎えたル・マン24時間レース。トヨタにとっては、これが本当の「デビュー戦」である。練習走行や予選ではマイナートラブルを連発するが、タイムは悪くなく、アウディのすぐ後ろと念願の初優勝が狙える位置に居た。
決勝では7号車のニコラ・ラピエールがアウディと激しい鍔迫り合いの末にトップに立ち、観戦している人々を沸かせた。
↑トヨタが首位に立つシーン。
が、結果は夜明けを迎えることなく、リタイアしている。8号車はGTクラスのフェラーリとの接触で宙を舞ってからタイヤバリアに激突、7号車は夜中に電気系のトラブルでピットアウト直後に息絶えたという感じである。
またこの時7号車の中嶋は、本山哲もエントリーしていたデルタウイングを幅寄せでクラッシュさせ、日本のファンからかなり叩かれた。これは内部でもかなり怒られたとのことで、「デカいミスを2回やったら即クビ」という規定の1回目に相当していたと後に明かされている。
トヨタは「ハイブリッド初のル・マン制覇」という栄誉を賭けた勝負だったが、残念ながらその栄誉はアウディの手に渡った。
アウディも4台中3台にトラブルが出ており、手負いの状態ではあったが、全損レベルのマシンを15分の修復でコースに送り返すという、さしづめゾンビのように生き返って完走する技術に木下は感銘を受け、自分たちのマシンもかくあろう、と決意したのであった。
ル・マン後
そんな苦いル・マンの後は、意外にも快進撃の始まりであった。
参戦車両を7号車だけの1台に絞り、ハイダウンフォース仕様車を急遽開発して第四戦シルバーストンに参戦した。
この時規則を隅々まで読んだうえでリアウィング外側に小さなウィングを付けて、「これはフェンダーの一部だ」と認めさせるという、旧F1チームらしい規則の潜り抜け方を披露した(アウディは翌年型でこのアイディアをコピーするほどであった)。
そして日本で行われる久しぶりのプロトタイプレースカーによる耐久レース、「富士6時間」でアウディを正面から破って初勝利を収めた。中嶋は1992年の故・小河等以来となる、日本車勢の日本人としての耐久世界選手権優勝ドライバーとなった。
そこからも表彰台を取りまくり、年間2位。
ル・マン後に限ればトヨタの3勝2敗という好調ぶりで、復帰初年度を終えた。
2013年
更なる進化
2013年は前年の山のような反省点を活かして、大幅な改良がされた。
特にエンジンは、圧縮比が「18.0~20.0」と言うディーゼルエンジン級の圧縮比に。排気管を4→1から4→2→1集合にしてトルクも上がり、パワーバンドが広がった(主に中低速域の加速を向上させた)。村田曰く「レーシングハイブリッドの95%はエンジンで、モーターは残りの5%だけ」と語っており、エンジンの熱効率には特に力を注いでいた。
シャシーの方も、昨年急遽フロントモーターを抜いたために残っていた「デッドスペース(無駄な空間)」を無くして、ジオメトリーを完全に後輪駆動へと最適化したことでよりコントローラブルなマシンに仕上がった。またコックピットの設計やヘッドライトの変更(LED→HIDにして光量を大幅に増強)、ブレーキフィーリングの改善(ノンハイブリッドのレーシングカーと同等の感覚になった)など、ドライバーフレンドリーな特性になるような改善がされ、「走っていて楽しい」という声まで聞かれるようになったという。。
さらに前年の反省から整備性も改善した。
空力面ではTMG自慢の風洞を活かした2枚のリアウィングをやめ、1枚のシンプルなリアウィングとなった(延長型の小型ウィングは継承)。
ただ、これらの改良はWEC開幕戦までには間に合わず、2012年型で選手権に参戦した。スパでは7号車が新型、8号車が旧型という体制だった。
そして迎えた2013年のル・マンでは、前年はアウディが燃費型・トヨタがパワー型であったのに対し、アウディがパワー型・トヨタが燃費型と入れ替わったのがハッキリした。長年培ったディーゼル技術とF1の流行を取り入れた排気系により、予選でアウディは4秒もトヨタを突き放していた。
決勝では1スティントあたり2周分多く走れるトヨタに対し、アウディはハイペースに周回してトヨタを突き放す。しかしアウディは3台中2台にトラブルが生じた。トヨタも7号車は燃料系トラブルやスローパンクチャー、雨でのクラッシュなどを喫するも、前年の反省が活きて短時間でコースに送り返した。
トヨタはなんとか8号車が総合2位を獲得した。
↑オープニングラップでのアウディvsトヨタ
選手権でも2勝しかできず(内1勝は富士の大雨で、たった16周のパレードランで終わったレースである)、アウディの強さを改めて見せつけらる格好となった。
短き命
然る事乍ら、この車はたった2年で御役御免になっている。理由としては、2014年の「規則改定」が絡んでいる。そう、レギュレーションで7速までOKになったのだ。それと4輪回生に関する規則もかなり緩和された為、後継マシンのTS040を投入する事になったのだ。
アウディのようなフロントモーターの四輪駆動ではなく、トヨタがわざわざ後輪駆動を見据えていたのはこの規則改定を見越して、より制御の難しいリアモーターの制御の訓練を積むためであり、その意味でTS030は試験車両的存在でもあった。
その為、この車は運用年数僅か2年という先代のTS020と同じ感じに。でもこのマシンが今の「GR010 HYBRID」へと繋がる礎になったのだ。
余談
実はこの車、テスト仕様と実戦仕様では、カラーリングが変わっている。元々はTS020の後継ということもあって、赤に白と言う日本を連想する色だったが、実戦仕様ではこの車の「おじいちゃん」にあたるTS010がル・マンでトヨタに初めての表彰台をプレゼントしてから20年経ったという記念で、元ネタになった「33号車」のオマージュカラーである青白になっている。
またTS010の頃からル・マンに関わっていた開発責任者の村田久武は「TS010は青の方が速かった」「サッカーの日本代表も青」などの理由も語っていた。