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山本五十六の編集履歴

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山本五十六

やまもといそろく

山本 五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 - 1943年4月18日)とは、日本の軍人。元帥海軍大将、連合艦隊司令長官。太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる。

実在の山本五十六

1884年(明治17年)4月4日、新潟県長岡市に高野貞吉の六男として生まれる。1901年(明治34年)、叔父の野村貞海軍少将の影響で、海軍兵学校に入校。


1904年(明治37年)11月卒業、翌年1月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり、5月27日の日露戦争における日本海海戦に参加する。この時、敵の砲弾を受け左手の人差指と中指を欠損。後の彼の人生に大きな影響を与えた。


1915年(大正4年)に山本家を相続し、山本と名乗ることになる。1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在し、ハーバード大学に留学。この時の飛行機産業への強烈な印象が、彼の航空機に着目するきっかけとなった。


1921年(大正10年)7月19日に帰国後、軽巡洋艦「北上」副長、続いて海軍大学校教官(軍政学担当)に転じる。1年後、海軍大学校教頭に山本英輔(後、初代航空本部長)が着任、山本五十六の航空機観に影響を与えた。


1936年(昭和11年)2月の二・二六事件では、反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返し、重傷を負った鈴木貫太郎侍従長のために医者を手配している。


1939年(昭和14年)8月30日、大日本帝国海軍27代連合艦隊司令長官(第一艦隊司令長官兼任)に就任。日独伊の枢軸同盟には反対であったが、調印がされてしまう。


日米交渉が困難になり開戦の危機が迫る中、近衛文麿首相から開戦の展望について意見を求められ、山本は半年や1年の間は暴れて見せるが2年3年となれば全く確信は持てぬ、と述べ日米衝突回避の努力を求められたが、近衛にこの意は伝わらず近衛は総辞職した。


太平洋戦争大東亜戦争)において真珠湾攻撃を発案し、航空戦力の威力を発揮し作戦を成功させた。続くミッドウェー海戦でも総指揮にあたったが、この海戦で展開された日米機動艦隊同士の決戦は無残な敗北に終わり、以降の日本海軍は惨敗続きとなり、泥沼化した負け戦へと突き進んでいく。


1943年(昭和18年)4月18日、ブーゲンビル島上空で、乗機が撃墜され戦死(海軍甲事件)。享年62歳。


人物

情に厚い人で、非常に部下想いだった。「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」という山本の言葉は、部下の掌握術として今でもしばしば引用される。


甘党で下戸だが、逆立ちなどの宴会芸が得意でよく披露していた。博打好きでもあり強かったと言われる。モナコの国営カジノに出入り禁止を食らった史上2番目の日本人である。


戦後は神格化されひたすら持ち上げられているが、一方で失態も結構ある。

リベラリストのイメージとは対照的に割りと精神論に陥りやすい傾向にあり、悪名高い零式艦上戦闘機の20mm機銃(九九式一号銃、エリコンFF20)の弾道挺進性の悪さも彼に遠因があったりする。


また本来上司部下の関係に以心伝心を求めることが多く、このためそりの合わない南雲忠一らとはスムースな意思伝達に欠いていた節がある。これは現在、ミッドウェー海戦の敗北の一因であったともされている。


また海軍では先輩である米内光政、後輩の井上成美山口多聞とともに政治色がかなり強い人物の1人である。戦後長く“条約派・航空主兵主義”として山本らと同一視されていた小沢冶三郎などはこの点批判的だったようである(小沢は「軍人は政治に関わるべきにあらず」(サイレントネイビー)という信念の持ち主であった)。


架空の山本五十六

アリスソフトのゲーム「鬼畜王ランス」「戦国ランス」の登場キャラクター。

センシティブな作品


関連タグ

大日本帝国海軍 連合艦隊

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