概要
ダグラス・コリガンはアメリカ合衆国のパイロットで1938年にニューヨークからアイルランドのダブリンまでの無着陸大西洋横断飛行を行った人物である。この飛行は非公認であり、雲のせいで地形が確認できなかったうえにコンパスを読み間違えたことによる航法ミスだと本人は主張した。
コリガン自身は認めることはなかったが、10年以上の飛行歴を持ち小型機で無着陸の大陸横断飛行ができるほどの熟練したパイロットだったことや、彼のカーチスロビンがオンボロであることを理由に大西洋横断飛行の申請を認めない当局に対する抗議のために、無断で横断飛行を行ったと思われている。
なおこの飛行は称賛をうけ、「方向を間違えた」コリガン("Wrong Way" Corrigan)と呼ばれた。
生涯
前半生
ダグラス・コリガンは1907年1月22日にテキサス州ガルベストンでアイルランド系アメリカ人として生まれた。出生名はクライド・グロース・コリガンと名付けられたが、成人後にダグラスと改名した。
両親が離婚し、家族は頻繁に引っ越したあとにロサンゼルスに定住した。学業を終えると建築家を志望していたコリガンは工事現場で働いた。
1925年10月に自宅近くで飛んでいたカーチス・ジェニーでの体験飛行によってパイロットを目指した彼は飛行訓練を開始し、飛行以外の時間を地元の航空機整備士の手伝いと学習に費やした。20回の練習の後、彼は1926年3月25日に最初の単独飛行を行った。その後、訓練していた飛行場のオーナーが経営していたライアン社に入社した。
航空整備士として
ライアン社に雇われたコリガンはある出来事によって自身の運命を決めた。それは翌年の1927年に現れた青年が起こした出来事だった。
青年の名前はチャールズ・リンドバーグ。無着陸で大西洋横断飛行ができる飛行機を2ヶ月以内に製作できる会社を探していた。
ベースとなるライアンM-1とその改良型M-2の実機も確認したリンドバーグは最終的に10,580ドルの費用で、当時もっとも信頼性の高いライト・ホワールウィンドエンジンを装備した長距離機の60日以内での製作・納入契約を結んだ。作業員の1人だったコリガンは期限を守るために真夜中を過ぎても主翼の組み立てや燃料タンクと計器盤の設置を担当した。(余談だが、機体の完成直前にライアン社の全員がプロペラスピナーの裏側に、リンドバーグを激励する寄せ書きを書き残していた。 残念ながらこのプロペラスピナーはクラックが入ってしまい実際に使われる事はなかったが、現在もスミソニアン博物館に展示されている)
リンドバーグが大西洋横断飛行を成功させた後ライアン社の社員はお祭り騒ぎになりコリガンも参加したが、この時ある夢ができた。自身のルーツであるアイルランドに無着陸飛行をしたいという夢を。
世界でもっとも有名となったライアン社は手狭となったカリフォルニアの工場からセントルイスに移ったが、コリガンはカリフォルニアにとどまり飛行学校の整備士として働いた。彼は整備士として働きながら、昼食時間を使ってパイロットの腕を磨いた。
東海岸に行き、飛行機を手に入れる
1929年に貨物機パイロットの免許を取ったコリガンは友人とニューヨークに行き、ルーズベルト飛行場でしばらく働いた後、東海岸に沿ってバーンストーミング(1920年代に流行していた飛行機での危険なスタント。フライングサーカスともいう)を行った。時は大恐慌の真っ只中だったが儲けは良く、友人と共にしばしば週に140ドルも稼いだ。(ちなみにアメリカ人の平均収入はこの頃で
1400ドル)
コリガンが1933年にカリフォルニアに戻ることを決心したとき車さえ持っていなかったので、旅行をするための安い飛行機を探し始めた。
彼は見た目はかなり良く、大丈夫そうだったとの理由でニューヨークの牧草地で売られていた1929年型カーチス・ロビンを購入した。このサンシャインと名付けられたロビンはコリガンに買われる前にニューヨーク州北部全体を飛び回り、3人の異なる所有者によって所有されて少なくとも6回もの衝突に耐えた頑丈な機体だったが、「耐空性がない」と思われていた。コリガンはロビンを手に入れた数日後に飛びたち、途中で乗客を乗せて稼いだり、農家からガソリンを分けてもらいながらカリフォルニアに向かった。
コリガンが所有したのと同型のカーチス・ロビンのテスト飛行
当時のバーンストーミングの一例
改造と挫折
サンディエゴに着いたコリガンは航空機工場で働いたが、それは冒険への熱意を満足させるものではなかった。彼はカーチスロビンを改修し、大西洋を横断するという夢を追求することにした。まず年代物で非力なカーチスox5エンジンから強力なライトR-540エンジンに換装し、操縦席を後部移動させて空いたスペースに増設した燃料タンクを配置した。
1935年に機体は完成したので、連邦検査官が飛行機を検査したが、大西洋横断飛行は問題外だと判断された。しかし、コリガンはあきらめなかった。 1936年、彼はニューヨークに飛び途中でセントルイスに立ち寄った。それから彼は連邦航空商務局に手紙を書き、飛行を進める許可を求めた。明白な理由もなく、彼は翌年まで待つように言われ、飛行機に無線機がなかったとしても無線通信士の免許が必要だと宣告された。
カリフォルニアに戻ると免許を取得し、さらに2つのガスタンクを設置した。翌年の1937年に彼は飛行の許可を再申請したが、却下されたうえに耐空検査の更新も拒否され、飛行禁止となった。
だが、彼はブルックリンのフロイドベネット飛行場に向かうことを計画して、ニューヨークに向かって飛んだ。この飛行は悪天候のため9日もかかり、10月末となって寒くなってきたのでコリガンは大西洋横断飛行の危険を冒さないことに決めた。
その代わりにニューヨークからカリフォルニアまで無着陸飛行を試みて、ある日の午後にフロイドベネット飛行場に着陸して燃料を補充し、飛行機が検査切れだったことに何も言われなかったため再び離陸した。彼は大西洋横断飛行を試みなかった判断が正しかったとわかった。上空は非常に寒く、キャブレターに氷が詰まりエンジンが止まりかけた。そのたびに氷を砕いて詰まらないようにスロットルを前後に動かし続けなければならなかった。
向かい風のせいでロサンゼルスまでの飛行は無理だったがなんとかカリフォルニアに到着し、サンフェルナンドバレーのアダムス空港に着陸した。そこで検査切れが判明して6ヶ月機体は飛行禁止処分となった。コリガンは他の飛行機で飛行時間を伸ばし、また自分の飛行機を修理して検査してもらった。
その後ロビンを調べに来た連邦検査官は、実験免許には十分だと言った。コリガンはニューヨークからカリフォルニアまでの往復飛行が許可された。
飛行の準備のために、さまざまな速度でガソリン消費量についていくつかのテストを実行して、85マイル(136km)が自身のカーチスロビンにとって経済速力であると判断して、天候を確認した後に、1938年7月7日ロングビーチから飛びたった。この27時間もの無着陸飛行は乱気流に巻き込まれ、燃料タンクからガソリンが漏れだしたことによってニューヨークのルーズベルト空港に滑り込んだ時にはわずかな燃料しか残っていなかった。(余談だが、このルーズベルト飛行場はリンドバーグがパリに向けて離陸した飛行場だった)
大西洋横断
ルーズベルト空港に到着したコリガンは、飛行機の漏れている燃料タンクを機体から取り外して修理するには日数がかかるため、燃料漏れには何もしないことに決めた。飛行計画では、前述の通りニューヨークからカリフォルニアまでの往復飛行だったので、アメリカ合衆国の地図しか持っていなかった。
同じニューヨークのフロイド・ベネット空港に向けて飛行機を飛ばした彼は燃料を満タンに入れて現金で支払った。燃料のガソリンとエンジンオイルの重量だけで機体は1トン近く重くなっていたので 持ち物はわずかな工具の他に1リットル足らずの水、2本のチョコレートバー、1箱のイチジククッキーしか持たず、この時パラシュートすら持っていないことに気づいたある女性パイロットがパラシュートを渡そうとしたが、彼は重量軽減のため断った。
7月17日早朝、エンジンが調子良く回っていることを確認したコリガンは、滑走路を東に向けて走らせ始めた。過積載だった機体はひどく軋みながら滑走を初め、3200フィート(約975m)でなんとか浮き上がった。本来であれば、カリフォルニアに向かうため西に機体を旋回させるべきだったが、彼は東に向かったまま消えていった。
10時間程飛んでいたコリガンは爪先が冷たく感じていた。燃料タンクから漏れたガソリンがコックピットの床と彼の靴を濡らしていたのだ。時間がたつほど悪化していき、コックピットの床に2センチ以上もたまっていた。これだけでも問題だが、機体の下部にある加熱した排気管に滴り引火した場合、まず助からない。そう考えた彼は排気管と反対側の床にドライバーで穴を開けてガソリンを排出することで炎上の危険を減らした。また漏れを直す事は不可能だったが、少しでも燃料がエンジンに行くよう全速力でエンジンを回した。
夜が明けて雲の下に降りると、「たった26時間しか」飛んでいないのにもかかわらず、大海原だったので、コンパスを確認すると「逆方向」に飛び続けていたことに気づいたコリガンはアイルランドに向けて飛ばした。
7月18日に28時間13分の飛行を終えてアイルランドのバルドネル空港に着陸した。
“Wrong Way” Corrigan
規則を破って自身の夢を叶えたコリガンだったが、アメリカでは国民的英雄となった。リンドバーグの飛行から11年が経過していたが、大西洋横断飛行はまだ一般的ではなく、ましてや特注ではないオンボロ飛行機で成功させたコリガンの名声は高くなった。(当時の記者によれば、製造から9年が過ぎたサンシャイン号は「壊れたドアハンドルの代わりに梱包用ワイヤーで固定してある惨めな見た目のオンボロ飛行機」であり、「増設した燃料タンクのため視界が遮られているので、前方を見る為には側面の窓から顔を出さなければいけない」と書き残している)
パスポートや旅券を持っていなかったため、下手をすれば投獄される可能性もあったが、コリガンに好意を持ったアイルランド首相のエイモン・デ・ヴァレラによって無事に出国でき、罰則は飛行機免許の停止だけだった。 イギリスの渡った後、定期船マンハッタンでアメリカ合衆国に送り帰され、免許停止の最終日である8月4日にニューヨークへ入港した。新聞は彼のことを書き立てて、ブロードウェイのティッカーテープパレードではリンドバーグの時よりも多くの人が参加した他、シカゴでもパレードを行った。(リンドバーグ当人は当初、コリガンの行動を認めていなかったが後に友好的な手紙を送っている)
コリガンは飛行から数ヶ月後に自伝That's My Storyを出版し、翌年には映画に本人役として登場して大金を稼いだ。
1939年の映画The Flying Irishman全編
その後
コリガンは1939年に結婚した。第二次世界大戦では爆撃機のテストパイロットや輸送任務につき、戦争が終わると小さな航空会社で働いた。1950年にパイロットを引退し、カリフォルニアで妻と3人の子供たちと暮らした。
1966年に妻が亡くなり、1972年には子供の1人を航空機事故で失った彼は引きこもりがちになったが、大西洋横断飛行50周年記念にはサンシャイン号のエンジンを掛けて、自身も飛行の時に着ていた革のジャケットで現れた。この時あまりにも興奮していたので、当局は「うっかり」飛ばさないように警備員を配置してパトカーと機体を繋いだ。
1995年12月9日、ダグラス・コリガンは88歳で生涯を閉じた。サンシャイン号は遺族によって長年保存されたが、カリフォルニアの航空博物館に寄贈された。