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概要


かつての琉球王国期(1527~55年ごろ)に建てられたと伝わる。

門が完成したのは第二尚氏(王国最後の王家)の尚清(しょう せい)王の時。


首里城の大手門(正門)であり東西を貫いていた「アイジョウウフミチ」の東にあたる。

赤い屋根4本の柱二重の屋根が特徴的な楼門。


守礼門(しゅれいもん)は中国からもらった言葉を書いた額縁「守禮之邦」からとられたいわば

あだなであり本名は「首里門」とそのまま。

また、城下の人からは「上の綾門(いいのあやじょう)」と呼ばれていた。

意味は「上(城に建ってる)美しき門)」という意味である。


建造と変遷


最初は今の瓦葺きではなく板葺きであったという。

また、扁額(へんがく、門の上にある看板みたいなもの)は「待賢」で

そのあとには「首里」続いて中国から「守禮之邦」の文字をもらう。

しばらくは「首里」と「守禮之邦」を併用していたが尚質王のときに「守禮之邦」に確定する。


さっきからでている「守禮之邦」は「琉球は守礼(礼節を守る)に足りる国」といういみである。


明治期も老巧化で取り壊された西の門と違い現存していたが沖縄戦で焼失。

1958年に再建された。この時には記念切手も出ている。

1972年に沖縄県指定有形文化財に指定された。


かつての汚名とその返上


守礼門の美しさを一目見ようと観光に来たものの守礼門しかなくかつては

「がっかりスポット」に加えられていた。

しかし、正殿の復活やほかの建物が再建した後はそう言った声は少なくなり

今では城の出入り口として多くの人を迎えている。

また、それに応じてか「2千円札」にも描かれた。


属国としての象徴


今でこそ(昔からだが)美しく華やかなたたずまいであるが、属国としての負の面もあった。

守礼門は中国の冊封使(中国の属国に派遣していた人たち)を歓迎していた。

その時の作法は「三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)」と言われるものである。



関連項目


沖縄県 琉球


中山門(ちゅうざんもん)・・・西の門で対の関係だった。

愛称は下の綾門(しむぬあいじょう)で下にある美しい門の意。

那覇港側からくる際の門であったが老巧がひどく明治期に解体された。

今の那覇高校付近にあったという。直せるときはいくらでもあったがなぜ直しがなかったかは不明。



迎恩門・・・朝鮮にあった使者を迎えるための門。

日清戦争後に属国の象徴として破壊されその後ろ側に独立門が建てられた。

今は柱が残っている。



二千円札 首里城

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