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概要で跪き編集

ただ単に「三跪九叩頭」「三跪九叩」ともいう。

清王朝の皇帝に対して行われる礼の仕方で臣下が皇帝の前でする。

叩頭とは額を地面に打ち付けるというやり方である。


1・「跪」の号令で跪き、

2・「一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。

3・「二叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。

4・「三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。

5・「起」の号令で起立する。


これを3回も繰り返す。もう一度言おう「3回繰り返す」のだ・・礼だけで体力を使う。


主な場所編集

紫禁城の前の庭での国事(お祝いや何らかの記念日など)行為で行われる。

また、琉球なら「守礼門」、朝鮮王朝であれば「迎恩門」に来た勅使を迎えるために行う。

しかも、行うのは王様自身であり、各王が勅使より位が低いこともさしている。


いつから始まったのか編集

叩頭礼自体は「ご先祖さまや神様、仏様に感謝するという意味」で明代から始まったとされる。

ただし、当時は「五拝三叩頭」であった。それが清ならびに満州族の支配下となった後、天に敬うという意味で「三跪九叩頭」に変わっていったという。


属国以外の対応編集

中華思想の妄想で「自分が一番」と考えていた中国は他国に強気であり、他国を「中華より下の野蛮国」と見下していた。そんな中での日英の対応が存在する。


大英帝国の場合編集

1773年、当時の皇帝が強要するもこの時の外交官は拒否。イギリス流を貫いた。

これが気に入らなかったのか貿易改善や条約締結は拒絶されてしまったが……。

次は1813年、別の使者がやってきたがここでも要求される。この時も変わらず拒否したが前とは違って皇帝への謁見は許されなかった。


日本国の場合編集

1873年、台湾事件などの処理で訪問した副島種臣にやれと要求。

副島は「私は一国の全権大使としてきた」(琉球や朝鮮とは違うという意味)とし立礼を貫いた。

当時、清皇帝に会おうと他国も尽力してダメだったなか立礼を貫き帰国も辞さないという強硬な姿勢はのちに「下関条約」でも登場する李鴻章(り・こうしょう)が妥協し、皇帝に進言したおかげで立礼のまま貫いてみせたという。これは近代の中国史上はじめてのことであった


余談編集

  1. 琉球の守礼門は清国がほろんだあとも残った。(西の門が壊されたが老朽化のため)
  2. 朝鮮の迎恩門は今は柱がわずかに残っており、日清戦争後に「独立門」が建てられた。

関連項目編集


 中国王朝 清朝 迎恩門 守礼門 属国


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