概要
FW14Bは、イギリスのレーシングチーム「ウィリアムズ」とフランスの「ルノー」がタッグを組んだ1992年シーズンのF1マシン。
テクニカルディレクターはパトリック・ヘッド、チーフデザイナーはエイドリアン・ニューウェイが引き続き担当した。
この年のドライバーラインアップは、前年と同じくナイジェル・マンセルと鉄人・リカルド・パトレーゼのコンビ。
前年のマシンであるFW14は、ルノーエンジンやシャシーのマッチングの良さが際立っていた反面、マシンの空力性能の安定性と信頼性に難があった為、アクティブサスペンション(このマシンに搭載されているのは、かつてのロータス・99Tのような完全油圧制御(フルアクティブ)ではなく、ガスシリンダー(パッシブ)と油圧式アクチュエータ(アクティブ)を組み合わせたセミアクティブ方式)やトラクションコントロールシステム(TCS)などのハイテク機器を追加してマシンの安定化を図った、いわゆる前年型の改良モデルである。
この年は開幕5連勝を含む16戦中10勝という成績でシーズンを席巻し、マンセルはF1デビュー13年目にして初のドライバーズタイトルを獲得するとともに、ウィリアムズとしても(ホンダエンジンを搭載していた)1987年以来5年ぶりとなるコンストラクターズタイトルを獲得した。
ポールポジションは第7戦カナダ(このレースではマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナが獲得)以外はマンセル・パトレーゼのウィリアムズコンビが獲得し、翌戦のフランスGPから翌1993年の最終戦・オーストラリアGP(当時はアデレード市街地コースで開催。このレースのポールポジションもセナが獲得)まで23戦連続ポールポジションというコンストラクター記録を樹立することになる。また、マンセルは(個人としても)年間14回のポールポジションという記録を残した。
年間の最多ポールポジション記録は、約20年後の2011年にセバスチャン・ベッテルがシーズン19戦中15戦でポールポジションを記録するまで19年間破られなかった(ただし、ポールポジションの年間占拠率の話になると、2011年のベッテルは15/19=約78.9%に対し、1992年のマンセルは14/16=87.5%に達し、その場合だとマンセルの記録は現在も破られていない)
また、年間9回のポール・トゥ・ウィンも同年のベッテルに並ばれたが、これは現在でもベッテルと並んで最多タイ記録である(前述と同様、年間ポール占拠率の換算では、2011年のベッテルでは9/19=約47.4%に対し、1992年のマンセルは9/16=56.25%となるため、事実上の単独トップである。また、1シーズンに行われるでポールポジションを獲得したのはこの年のマンセルが唯一である)
なぜ1992年いっぱいまで使用されたのか?
実は、(もし)アクティブサスが失敗に終わった場合に備えて、従来のパッシブサスペンションに戻せるFW14Bをシーズン序盤限定の暫定車として使用する予定だった。そして特に問題が無ければ、中盤戦以降はそのFW14(B)をフルモデルチェンジした新車・FW15を投入する予定だった。
しかし、他チームのマシンを引き離す圧倒的なポテンシャルを持っていた事が判明したため、当初の計画を変更して1992年シーズンいっぱいまで使用することになった。
実際、FW14Bのアクティブサス機構は無理やり搭載した関係上、モノコック内に完全に収まり切っておらず、特にフロント部分はこぶ状のカバーに覆われていた上に外に張り出してしまっていた。
好成績と裏腹のチーム内事情
前述のマンセルによる開幕5連勝や3戦連続のワンツーフィニッシュで最高のスタートダッシュを決めたウィリアムズ。
しかし、シーズンでの好調とは裏腹に、チーム内の空気は次第に悪化していく。
それは、当時のチーム代表だったサー・フランク・ウィリアムズとチームが、もはやF1最強となったマシンに強い自信を持ち、これを材料にすれば自分たちにより有利な条件でより優秀なドライバーを獲得出来ると考えたためだとされる。
この考えに基づいて、チームはアイルトン・セナやアラン・プロストなど、他チームに所属していたトップドライバーの獲得を優先したのに対し、チームのタイトル獲得に貢献したマンセル・パトレーゼの両名に対し(通常なら年俸アップなどで厚遇するところを)翌年の年俸ダウンによる待遇の大幅低下を飲むように迫るなどあからさまに冷遇したため、ドライバーとチームの関係は冷え込んでしまい、シーズン終了をもって両名ともチームを離脱した。(マンセルに対しては無礼を謝罪し全て希望どうりにするからと翻意を願いでたが前述のように扱われたあとでは全く信用されず予定どうり引退した。)
ちなみに、チャンピオンを獲った自チームのドライバーに対しての冷酷な対応はその後も続き、翌1993年のプロスト(その年のタイトルを獲得したが引退した)や1996年のデイモン・ヒル(その後はアロウズに移籍)など、同チームでチャンピオンを獲得したドライバーがチームに残留できずに離脱してしまう事態が続くことになる。
特に、長年チームのマシン開発の中心を担っていたヒルの離脱は致命的で、ヒルの離脱によってチームの(マシン)開発力が大きく低下したことに加え、ヒルを強引かつ無慈悲な要求を押し付けたうえでの解雇に反発したニューウェイ(ニューウェイはヒルの友人だった)の離脱を招くなど、後のチーム低迷の原因となる。
マンセルのチーム離脱以降、ニューウェイは以前からドライバーとの繋がりをもっと大切にするように意見しており、特にドライバー人事については、自分たちだけで決めずに必ずニューウェイ自身も関わることを約束していたのにもかかわらず、逆にフランクとヘッドというごく限られた者達だけでドライバーたちの処遇を決め、ニューウェイにはその結果だけを事後報告するというパターンを何度も繰り返されたため、まるで個人商店のワンマン社長そのままの身勝手さにとうとう愛想が尽きたようである。
そして、ニューウェイは1997年にマクラーレンに移籍、本格的に(マクラーレンの)マシンのデザインに関与し始めるのは1999年になってからの事になる。
最強マシンの実情
パッシブサス車であるFW14が投入された1991年は、マンセルが5勝2PP、パトレーゼ2勝4PPという成績だったが、パトレーゼの方が先に優勝(第6戦メキシコGP)し、予選の結果では(3戦連続のポールポジションを含む)16戦中9戦でパトレーゼがマンセルを上回っていた。
ところが、アクティブ車のFW14Bが投入された1992年はマンセルが9勝14PP、パトレーゼは1勝1PPと圧倒的な差がついた。特に予選ラップタイムでは1-2秒のタイム差という、同じマシンに乗っているとはとても思えない程のギャップが開いた事もあった。
この差は、両者のアクティブサスへの適応度によって生じたもの。
実は、アクティブサスペンション車は従来のパッシブサスペンション車よりは限界まで攻め込むことができるが、その感覚の違いをドライバーが克服しなければ、その性能を完全に活かすことはできなない。
特に、ダウンフォースが強まる領域では接地感が落ちまるで浮遊しているような感覚が強く、そのグリップしているかどうかわからないような恐怖感すら感じる状況下において、マシンを信頼してコーナーに飛び込んでいく精神力が必要だった。
後にマンセルが「こんなに速いとバリアにぶつかってしまうぞ、という頭の中の"アラーム"を乗り越えることが大変だった」と語る程、アクティブサスペンションを搭載したマシンへの適応に苦労をしながらも何とか克服する事が出来た。
しかし、パトレーゼはマシンの反応を感じながらスムーズに操るタイプのドライバーだった事が災いしたため、アクティブサスペンション特有の反応に慣れることが出来ず限界領域で早めにアクセルを戻してしまい(前記のように)このような差が生まれてしまった。
さらにマシンが強烈なダウンフォースを生んでいた影響で、コーナリング中はハンドルが非常に重く、また(この頃のF1マシンでは)パワステが未装着であったこともあって、この点においても腕力で勝っているマンセルが有利であった。
また、マンセルは記者会見でアクティブサスペンション搭載車の操縦がいかに難しいかを伝えようとたびたび説明したが、周囲からは、(逆に)マシンの高性能にマンセルが助けられていると解釈され、皮肉にも「誰が乗っても勝てるマシン」という評価を招くことになってしまった。
その結果、翌年のレギュラーシートに関する激しい駆け引きが始まり、それが(最終的には)チームとドライバーの関係悪化とマンセル(アメリカ・CARTに挑戦)・パトレーゼ(ベネトンに移籍)の両ドライバーの離脱に繋がった。
関連タグ
ナイジェル・マンセル リカルド・パトレーゼ ウィリアムズF1 ルノー F1
前期型 FW14
後継機 FW15C