SKB工業の始まりは水戸藩に派遣されていた御用鉄砲鍛冶の名門、国友鉄砲鍛冶師の門下であった阪場志業が1870年に阪場銃砲器として独立し日本軍の銃器の製造修理を受託したことに始まる。これによりノウハウを手に入れ1883年からは村田銃を民間に製造販売するようになった。
同じ水戸国友門下には宮田製銃所(後の宮田工業)を設立した宮田栄助もおり、これとほぼ同時期に銃器を製造していた。しかし、宮田製銃所は1893年に自転車製造を始めた事をきっかけに自転車やオートバイに注力するようになり、1902年に宮田製作所と改称し祖業から撤退した。阪場銃砲器の場合はこうした副業を持たず銃器製造に専念し、国友の技術系統にある最後の銃製造会社となったが、これが後に両社の明暗を分けることとなった。
戦時中は軍への納入に専念し民間への販売を中止していたが1949年には合資会社阪場銃砲製作所と改組し空気銃を手始めに民間への製造販売を再開した。1951年に企業組合阪場銃砲製造所に改組し散弾銃製造を開始した。1961年に海外への販路拡大を掲げSKB工業と改称、BSAと提携を結んだ。1966年には三井物産が仲介する形でアメリカのイサカ・ガス・カンパニーと提携を結び半自動散弾銃に注力、また旭化成の支援の下装弾部門を旭SKBとして分社、海外依存を強めていった。この頃宮田工業はオートバイ競争の激化で経営が悪化し、松下電器産業の支援を受けることとなりオートバイから撤退、消火器製造に参入していた。一見するとSKBの方が優勢であったが、この後ニクソンショックが起きて一気に経営が悪化した。1972年には副業としてゲームセンター向けに遊戯システム「SKB光線銃」を製作したが既に時遅く1978年のイサカ倒産によって完全に追い込まれ1980年に連鎖倒産した。
同年地元企業が共同で新SKB工業を設立し、事業を継承した。ウェザビー社やガンズ・アンリミテッド社を新たな提携相手とし、SKB Shotgunsブランドで北米に再進出した。一方でミロクのOEMを受託したり、副業としてパタークラブ製造もおこなったが海外依存を変えるまでに行かず、2004年にウェザビーとの提供が終了すると再び状況が悪化、さらに他国への販路を拡大することで状況の打開を図るが2008年のサブプライム恐慌でとどめを刺され2009年に事業停止に追い込まれた。
2010年に会社を清算し、アフターサービスは複数の取引企業に委託し、射撃場は花火で有名な國友銃砲火薬店へ、その他はガンズ・アンリミテッド社に譲渡され、正式に会社解散。旭SKBも在庫処分が終了した2016年以降休眠会社化し、ここに名実ともに国友系銃製造が終焉を迎えた。
現在アメリカのみSKBのブランドで散弾銃が売られているが、これはトルコの企業が作っている銃に商標を持つガンズ・アンリミテッド社がバッジエンジニアリングをしているものである。
関連項目
宮田工業 - 同じく国友鉄砲鍛冶の流れをくむ消火器・自転車メーカー。銃からは撤退したが民生品に注力したことで現在も盛業中。
外部リンク
SKB Shotguns - 現在発売されているバッジエンジニアリング製品の公式サイト