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国友

くにとも

国友は長浜市の地名。または町の名前から取られた工業集団「国友鍛冶」や、そこから取られた火縄銃の名門ブランド名「国友筒」などを指す。
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概要

1544年、それまで多くの鍛冶屋が住んでいた国友村に足利義晴の命令をうけて家臣の細川晴元が鉄砲の製造を依頼した。見本の銃を渡されたが、当初は再現に苦労した。最終的には大根のかつら剥きにヒントを得てネジの製造に成功。これを突破口に際現に成功した。
その後村は、堺に勝るとも劣らない鉄砲の一大産地となり、徳川家康による天下統一まで多数の鉄砲を製造し続けた。後に鍛冶屋の名字も「國友」・「国友」に統一された。

戦国の世が終わると、製造数が少なくなり、メンテナンスの仕事が多くなった。メンテナンスに当たっては村からの派遣だけではなく、大名に士族と同等の身分で召し抱えられその地に常駐する事も多かった。

国友村は技術が集まる街として繁栄を謳歌し、多くの文化も流入し花開いた。
遠州流茶道中興の立役者辻宗範は同地出身である。
また宗教への関心も強く、仏壇産業に進む者もいた。また、同地には顕教踊りが伝わっている。

平和産業への転換も進み、火薬の扱いに長けていたことから花火産業へ参入した者もいた。また、精密加工技術を使って彫金なども行われており、これらは長浜仏壇に生かされている。

1818年からは日本の発明王「国友一貫斎」が頭角を現し、彼の手により気砲(空気銃)や御懐中筆(筆ペン)などを製作、さらには望遠鏡を製作し日本初の近代的天体観測が行われた。

異国船の来襲に当たって古代に存在した「弩」(ボウガン)の復活製造を依頼されたが、これは完全な復元が出来なかった。しかしながら、その対案として潜水艦や航空による国防を主張し、潜水具や「阿鼻機流」(飛行機)、空船(飛行船)の設計に着手したものの当時の技術では実現できぬままこの世を去った。(飛行機発明は1903年、飛行機国防という概念が実現するのは中島飛行機が設立される1917年まで待つことになる。)

1873年に国友村としての鉄砲製造は終了し、それ以降は猟銃に限っての個々での製造販売に移行することとなった。銃に関わり続けた主な例として門下生によって設立された宮田工業及びSKB工業の例が存在する。

又、筒の加工技術を生かした自転車産業への転身が図られ、こちらも最終的にライバル堺よりも早く、宮田工業として結実した。

関連タグ

宮田工業 SKB工業

外部リンク

国友鉄砲の里資料館
國友銃砲火薬店

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