ここでは史実での大和型戦艦について取り扱う。
概要
大日本帝国海軍が建造した戦艦の最新最後の艦型。基準排水量65,000t、主砲口径46cmともに世界史上最大の戦艦。
軍事的に「戦艦」の存在自体が過去の遺物として消え去った現在、おそらくは今後とも破られることはないだろう。
そもそもは1934年の時点で竣工から20年近く経った戦艦長門と戦艦陸奥の後継艦と、旧式化しきった扶桑型戦艦や金剛型戦艦の代替を兼ねて、新世代戦艦として計画が開始された艦型である。日本海軍は本型を次世代戦艦のスタンダードとなるベース艦として設計していた節があり、実際に1940年代を迎えた頃に大和型をベースとする改良発展型が数種ほど計画され、砲の試作まで進んだ。当初の計画では最終的には本型を5隻揃えた後、改良発展型3隻を連合艦隊中核に添え、戦艦戦力を新世代艦で統一する計画であったという
なお、一番艦の名で検討された『大和』の対案は『飛騨』であるとの噂が言い伝えられ、最終的に大和に決まったという。
飛騨だったら牛になってしまう……
こうして、開戦前に4隻が起工したが、開戦後は急激な空母戦力の発達により戦艦の存在意義が薄れた(マレー沖海戦で「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」が撃沈され、空母が今後の主戦力となることがはっきりした)ため、当初の計画通りに竣工したのは1番艦大和と2番艦の武蔵の2隻にとどまった。3番艦の信濃は建造途中で航空母艦へ改装され、4番艦は進水もすることなく建造中止となった。(資材は伊勢の航空戦艦化や損傷艦の修理用に転用された)
6万5000トンもの巨体なだけに安定性と凌波性には特に優れており、強風や荒波での戦闘は有利だったと思われる。自身の主砲に耐えてなお余りある装甲の厚さ、魚雷の直撃を受け止めるべく艦底まで延びた水中防御区画の設計は、他に並ぶものがない。
しかし、大和型の設計の最大の優秀性は、46cm砲10門を搭載した割に艦体がとてもコンパクトにまとめられていた点にある。またこの巨体でありながら旋回性も非常に優れていた。
しかしながら、舵の追従性がはなはだ悪く転舵後舵が効き出すまで1分半もかかったこと、舵が艦後部にしかなく一発の魚雷で全滅する可能性がある(実際に大和沈没時には魚雷攻撃で舵を損傷し左側にしか旋回できない状態に陥った)などの欠点も抱えていた。
また大型艦であるために必然であるが、一度動けば莫大な燃料を消費する。ただし、最高速力27ノットと最高速度を(日本艦にしては)控えめにしたこと、翔鶴型航空母艦に次ぐ球状艦首などの新機軸の導入により、大型艦の割には低燃費であったという。
最大の問題は、海軍が本艦を有効活用する戦術を欠いていたことであり、太平洋戦争自体が航空戦力主体に移行し艦隊決戦の機会自体を逸したまま温存されたことで、ほとんど実戦で真価を発揮できないまま、無為に沈めてしまう結果となった。
建造中に空母へ改造された信濃も、就役後わずか10日で回航中に撃沈されてしまう結果となった。姉妹艦のすべてが(戦艦の本来の目的である)敵戦艦との砲撃戦の機会を得ることなく、航空機や潜水艦で引導が渡されたため、日本では大和の沈没を以って、戦艦が主役となる大艦巨砲主義思想に止めが刺されたとされる場合が多い。
悲劇的最期のあとで
当時は日本海軍最高の機密として扱われたが、海軍が解体され、情報開示された戦後は広く知られフィクションで頻出する。
昭和30年代の映画『戦艦大和』などの戦記ブームから、昭和50年代のSFアニメブーム時代の『宇宙戦艦ヤマト』を経て、90年代に流行した仮想戦記に至るまで多数の人気作品で主役級の兵器として扱われた。これにより大和は零戦と並ぶ日本技術の最高峰、栄華を誇った旧日本海軍の悲劇の象徴として認知されているが、同時にやや史実に詳しい向きには大和型戦艦を時代遅れの大艦巨砲主義の権化、日本海軍の失敗の象徴と捉える見方も広がり、大和を手放しで賞賛することに批判的な意見も少なくない。
言わば、戦艦三笠を日本海軍の栄光の象徴とするなら、大和は日本海軍落日の象徴と言えるだろう。
同型艦
一番艦・大和 二番艦・武蔵 三番艦・信濃(→航空母艦へ改装) 四番艦・111号艦(未成)