解説
大雑把に「神様が沢山いる宗教」としてくくられる。同義語、あるいは同義的に使われる言葉として汎神論(アニミズム)という言葉がある。
多くの神々が崇拝されるので、信仰のあり方、理念が同じ宗教の中でも多数存在し、時には矛盾するものさえあるのが特徴である。また、特定の意思決定権を持つ最高神が不在であるか、いても神々それぞれの主張が尊重される(あるいは押し通される)傾向にある。
元々は一神教のように一つの信仰対象を持っていた勢力が、他の勢力と接触したり征圧したりするうちに、他の信仰対象を吸収し、気が付いたら多神教(的)になってしまっていたパターンも多い。多神教のカオスさ=他の神をある程度尊重してメンツを立てるスタイルの根源には、このような歴史的経緯から来る経験則がある(無論、完全制圧して忘却させるパターンもあったのだろうが…)。
(なお仏教も基本的には多神教とされているが、汎神論または無神論的な宗教であるという見解もあり、議論が分かれている部分もある。後述)
「多神教」という言葉の用法
「一神教(的)」が唯一神教以外に対しても使われるように、「多神教(的)」という言葉も、多神教以外にも使われる。
また、儒教や道教のような根底で神的力作用を否定していたはずの論理体系も、外(非東洋世界)から見れば立派な多神教として扱われる。
対義語は一柱の神を信仰する一神教だが、そもそも「多神教」という言葉自体が一神教との対比で名付けられている。そうなれば当然ながら「多神教」という言葉自体に「カオスなもの」「未整理なもの」転じて「猥雑なもの」「幼稚なもの」というイメージが含まれている場合もある※。
これらのイメージはキリスト教徒が振り返ってローマ帝政時代を批判するときに繰り返されたフレーズから来ている。その後ヨーロッパが歴史の中で膨張し、行く先々で多神教的世界観と接触したため、キリスト教徒からすれば「未開発なもの」「非文明的なもの」という否定的イメージが加速した。
が、あまたの意識革命とキリスト教批評を経過するとさらに意味は転じ、今では「エキゾチックなもの」「神秘的なもの」「文明に触れる前の抑圧されていない人間の本質的で芸術的なもの」という肯定的なイメージすら付きまとうようになった。わけがわからないよ
※当然ながら、一神教から見た多神教のイメージであり、多神教にロゴス(秩序=ロジック)がない訳ではない。また、後の文明圏が喧伝したように、自由でも無ければ抑圧が無いわけでもない。彼らには彼らのルールがあるが、外から見るとわけがわからないのだ。
多神教が無神論と呼ばれるケース
――余りにも多くを望むものは、何も望まないのと同じである――
(テリー・イーグルトン「シェイクスピア」より)。
多神教には様々な神がいる。様々な信仰があり、信条があり、信念がある。
それは時に、同じ枠の中で互いを否定し、打ち消し合い、無意味化する場合すらある。
「Aでもあり、Aではない」と平気で言ってしまえるのが多神教の恐るべき所であり、魅力でもある。
仏教とその背景となるインド神話の経典には、複数の神々が登場する。現存する経典で最も古い阿含経(アーガマ)でもそれは変わらない。
仏陀の称号の一つに「天人師」がある。これは「神々と人間の師匠」という意味である。アーガマを含めて経典通りに信じる仏教徒の目線からは、仏教はそもそも神々の存在を前提とした宗教であると言える。
しかし、仏教は無神論とも呼ばれる。万物は縁起の集合霧散によってあたかも存在しているかのように見え、それを認識する人間の視野や発想力こそが万物を形成する(跳躍もとい超訳)。そのように考える仏教においては、最高神がいようといまいとあまり変わりないので肯定も否定もしない。(禅宗に至っては「仏が出たら仏を殺せ」とまで言っている。)
このような理論体系の中に最高神を規定し、崇拝する姿勢が無いので、「仏教は無神論だ」とか、「仏教は神を持たないので宗教ではない」という発言を目にすることもあるだろう。(最も神がいるかどうかは宗教かどうかを判定する決定要因ではなくなったのだが)
また仏教の大本であるインドの世界観は輪廻転生を始めとした〝円環する世界観〟を有するので、創造主(創造神)の存在を認めず、神々もまた迷える衆生とする解釈もある。神々のリストを共有するヒンドゥー教でも下位の神々は限界を持ち、ヴィシュヌやシヴァのような主神は絶対的な至高者とされるが、仏教では至高者(主宰神)としての神も認めない。万象は神も含めてすべて縁起の中から逃れられないのである。(大乗仏教においても天部の神々は 業・輪廻を逃れられないとされ、その地位は「悟りを開いた人」である如来、明王、菩薩より下である。)
古代多神教を近現代に復活させる新異教主義(ネオペイガニズム)の北欧神話版である「アサトル協会」は神話に登場する神(オーディンなど)の実在を認めず、あくまで自然の力や人間精神の象徴としている。
かつていた北欧神話の信者からすれば、彼らは無神論者であるのかもしれない。
儒教や道教は、宗教というより説教のイメージが強いかもしれないが、外から見れば立派な多神教である。しかし儒教的理論体系から分派して誕生した道教では数々の神や仙人等が崇拝されながらも最高位に存在するのは孔子や天子等の人間であり、その孔子自体が「怪力乱神を語らず」と神性の力学思考自体真っ向から否定していた(諸説あるが)。
あれだけ廟をハデハデにデコっておきながら、理論の根底には無神論が存在している。これは仏教も同じである。
一神教が(皮肉で)多神教と呼ばれるケース
一神教では唯一神(エホバ、ゴッド、アッラー)のみの崇拝を行い、それ以外は信仰してはならないという決まりがある。
しかしキリスト教においては、カトリックや正教会などで行う聖人崇敬をさして多神教(的)とする主張がある。(聖人崇敬を行う教派・宗派では崇敬と崇拝は厳密に区別されている)これは〝聖人崇敬=多神教論〟からすれば「キリスト教徒は聖人を崇敬と言いながら崇拝している」という非難である。
ただし仏教や儒教、後述のイスラム教でも同じことが言える。これは一神教多神教という対比関係に限らず、神と同格に扱われかねない〝聖人〟という概念を抱えた宗教には必ず起こりうるジレンマである。
イスラム教でも聖者崇敬が行われているが、ムスリムの中にはこれを多神教とし非難する立場もある。主張だけに終わらず史跡・聖地の破壊まで行うグループも存在する。「ISIL(イスラム国)」は預言者ユヌス(ヨナ)の墓も破壊した。
エホバの証人などは三位一体説を古代多神教の「三人組の神々」の影響を受けた多神教としている。また、クリスチャンからエホバの証人のほうが多神教的だという批判もされている。
同じ経典を信仰する宗教同士が互いに多神教的と批判し合う。なぜこのようなことが起るかといえば、解釈の違いによって引き起こされたケチのつけあいであり、傍から見れば上げ足取り合戦である。
エホバの証人もまた聖書を聖典としているわけだが、新約聖書ではイエス・キリストは世界を創造する存在とされており、エホバの証人もこれを受け入れている。しかし、神でないものに天地創造の力があるとする事は、神でないものが神の権能を持つとする事になる。エホバの証人の見方だと、神としての力を持つ存在が父なる神とイエスの二柱が存在する事になる、というわけである
無論、この点に関する議論は千年以上も前からずぅぅぅっとバチカンとかで交わされており、カトリックは建前上、全ての信徒がこの疑問に対して〝正しい答え〟が出来る事になっている。(気になる人は教会に行って神父様に議論吹っ掛けに行こう、きっと無視されるか長話につきあわされて後悔する事になるぞ)
宗教でないものが多神教と呼ばれるケース
神話上の神々や聖人でないものが多神教、多神崇拝と呼ばれる事がある。
もとより多神教はその名の通り多数の神が存在し、同様に彼らには個々の特性が与えられる。いわば〝キャラ付け〟であり、各々の性格やエピソードに合わせて信者に与える恩恵が割り振られる。
そうなれば当然信者たちは、割り振られた恩恵から逆算した神様を信仰するようになり、お金が欲しければ福の神か商売の神、恋を成就させたければ縁結びの神と、まさに〝困った時の神頼み〟と化す。(これは日本でも中国でもギリシャでも、割とどこ行っても変わらないらしい)
このドグマ(宗教的原義)もへったくれもなく、人が見返りのために善を行い、神が人の欲望を叶える為だけにいる点を、後の一神教徒は偽善的だと厳しく批難した経緯がある。
それは今日の、富や物質的豊かさ、あるいは地位や名誉や名声への憧れ、それら欲望やエゴ、世俗主義や甘っちょろいヒューマニズムといった思想や価値観に通じる点も存在し、この点を敬虔な方々は「多神教的」と批難されるかもしれない(最もその場合論点がずれているが)。
多神教は一神教より寛容か
多神教(の信者)が一神教(の信者)より寛容というわけではない。一神教だけでなく多神教でも他の宗教や宗派の信者への迫害は起こっている。相手が一神教徒であるケースもある。
ローマによるエルサレム神殿破壊とゼウス神殿化計画(未遂)、中国・唐代の会昌の廃仏、日本の明治維新期の排仏毀釈、上座部仏教国ミャンマーにおけるイスラム教徒のロヒンギャ族弾圧、ヒンドゥー至上主義者による他宗教者襲撃などを例として挙げる事ができる。
しかしてこれらの多くは、背景に政治的事情が色濃く存在している場合も多く、多神教の「Aでもあり、Aではない」特性が時の勢力と共鳴して(あるいは誘発したりされたりして)引き起こされたのかもしれない。