概要
1947年に和歌山県でカツオ漁船・第七事代丸として作られ、静岡県焼津港で遠洋マグロ漁船・第五福竜丸となった。
1954年3月1日、マーシャル諸島近海で操業中、ビキニ環礁でのアメリカ軍による水爆実験「キャッスル作戦」に巻き込まれ、放射能を帯びた降灰「死の灰」を被り、漁船や乗組員、捕獲した魚が被曝。当初、米軍が設定した危険水域外におり、危険を察知してその場からの脱出も図ったが、水爆の威力が米軍の予想8mtを超える15mtだったため、第五福竜丸だけでなく他の多くの漁船や現地住民も被曝した。
3月14日に焼津に帰港した第五福竜丸は静岡大学や文部省の調査と検査により、放射能反応を確認。乗組員の多くが被曝による放射能症が起こり、無線長・久保山愛吉は半年後に病死。汚染されたマグロは地中に埋められたが、焼津から水揚げされたというだけで断られる風評被害「放射能マグロ」も流行った。
アメリカ側は今回の件が日本での反核運動がさらに反米運動に発展することを恐れ、日本政府に圧力をかけて、被害者の放射能との関連性を隠蔽・矮小化を図り、補償も行い、事態を鎮めようとした。しかし、この事件がきっかけで日本での反核運動は芽生え、広島・長崎の原爆に次ぐ原子力事件となった。
この事件の影響を受けて、特撮映画『ゴジラ』誕生のきっかけとなり、岡本太郎は壁画作品「明日の神話」を制作した。
第五福竜丸は放射能除去作業後、東京水産大学の練習船となり、後に廃船となって打ち捨てられていたが、東京都職員が見つけて保存運動が高まり、現在では夢の島公園に保存・展示されている。
その後日本は、冷戦の時代、アメリカの核の傘の下に平和な高度経済成長期を迎え、原子力技術も向上させ原発も多く作ったが、原子力船むつの放射能漏れや東海林臨界事故、そして東日本大震災による福島第一原発事故と放射能の恐怖の因果は戦後日本に付きまとうこととなった。