島津豊久
しまづとよひさ
島津豊久とは薩摩の戦国武将、及びそれをモデルとする人物。
史実
薩摩・島津氏一族の戦国武将。父は第十五代目当主島津貴久の四男でその軍法戦術で知られる島津家久。
父が総大将を務めた沖田畷の戦い(対龍造寺隆信戦)で初陣を果たし、敵一人を討ち取っている。
その後豊臣秀吉による九州征伐が始まり、島津氏は豊臣氏に降伏することになる。しかし、父家久が急死。以後は家久の兄である島津義弘に養育され、実子同様に扱われたという。
やがて父の跡を継いで日向佐土原城城主に就任。秀吉に従って文禄・慶長の役や小田原征伐などに従軍する。秀吉の死後は、重臣伊集院氏との内乱である庄内の乱に出兵して武功を挙げる。
関ヶ原の戦いにおいては伯父義弘と共に西軍として参加。しかし、庄内の乱の影響で大軍が送れず、更に義弘が提案した作戦が一蹴されるなどが原因で西軍に対する不信感が募り、戦闘には積極的に参加しなかった。
関ヶ原本戦で西軍が敗れると、切腹を覚悟する義弘に撤兵を促し、有名な島津の退き口を展開する。豊久は先陣を務めるが、徳川家康による追撃は激しく、義弘の身代わりとなって戦死した。
伝承
あくまでも伝承ではあるが、豊久は戦死した折に複数の槍に突き上げられ三度宙を舞い、その陣羽織はボロボロになったと言われる。後にある親が赤ん坊である子供を高い高いしているのを微笑ましく人々が囲んで見ていると、豊久の最後を見た者が血相を変えてやってきたので驚いて理由を尋ねると豊久様の最期の光景にあまりに似ていた、と語り落涙したといわれる。