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編集内容:人としてのイエス追加

表記など

ヤハの救い」「ヤハは救い」「救う者」の意

『キリスト教の開祖』

紀元前一世紀頃にパレスチナで活動していた宗教家。

ナザレのイエス(紀元前4年頃 - 紀元後30年頃)を救い主とするキリスト教においてのイエスの称号。

「キリスト」は、ヘブライ語のメシア救世主)のギリシャ語訳christosから。

つまり、イエス・キリストという呼び方そのものが「イエスを救世主と認める」ことを意味する。

メシアとは「油を注がれた者」という意味で、王、預言者、祭司が「油を注がれる」シーンがある。

イスラエルの民に寛大な治世をしたペルシャキュロス2世がメシアと書かれた『イザヤ書』の例もある。

しかし、ユダヤ教用語としてのメシアと言う場合、神に選ばれてダビデの子孫の中から出現し、失われたイスラエルを再建し、世界を統治する救世主を指す。

歴史上、メシアを自称する人物は何人も現れたが、その中でその支持者が何世紀も超えて存在し続けているのはナザレのイエスのみである。

そのためギリシャ語で「キリスト」と呼ぶ場合、ほぼナザレのイエスの代名詞となっている。

イエスが興した宗教運動は「ナゾラ派(NAZORAIOS)ユダヤと呼ばれる事もある。「若芽(ネツィール イザヤ書に「エッサイの木から若い枝が出る」と預言されてることから)」の可能性があるが、新約聖書編纂者、四福音書書記は全員「NAZARENOS(ナザレ)の意」と解釈している。

名称は「ナジル人(タブーを守る聖人)」とする考えもあるが、旧約にあるナジル人の規定をイエス自身が守っていないため、この可能性は低い。

キリスト教におけるイエス・キリスト

福音書における彼の生涯についてはナザレのイエスの項目を参照。ここではキリスト教におけるイエスについて記述する。

神としてのイエス・キリスト

キリスト教におけるイエスの扱いにおいて最も協調され、論議を生んでいるのがイエスが神であるという教義である。

新約聖書には実際そう書いてある。イエスは神と呼ばれるだけでなく、天地創造まで行ったとされている(『ヨハネによる福音書』冒頭など)。

福音書によると、イエスは復活後に父なる神から天地の全ての権威を授かっていると発言しているが、タルソスのパウロの書簡によると、実際彼は万物を服従させることができる(『ピリピ人への手紙』3:20-21)。

中風の人の信仰を癒した際に「あなたの罪は赦される」と発言し、居合わせた律法学者に「神以外に罪を赦すことなどできようか」と言われている。

続くイエスの発言によると、地上において罪を赦す権能は「人の子(メシア)」が持つ権威の一つだという。

これらをそのまま受け取り、イエスを神とする場合、そのままだと神が複数存在することになってしまう、という問題が生じる。

この矛盾を解消する説明の一つが神としての「本質」は唯一だが、「ペルソナ(位格)」は三つありイエスもその一つとする三位一体説であり、伝統的なキリスト教徒が唱えるものである。

このほか、ペルソナの違いも認めず、イエスは父なる神本人の別の姿とする「様態論」が存在する。

エホバの証人は、イエスは天地創造などを行っているが、それでも神ではなく実際は天使、という立場をとる。

古代に存在したアリウス派も被造物とする点ではエホバの証人と同じだが、父なる神よりは劣るが神性じたいは有るとする点では異なる。

人としてのイエス

主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)

われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。(カルケドン信条)

キリスト教では、イエスは完全に神であると同時に、完全に人であると説かれる。

完全な神であるイエスは処女懐胎を経て受肉した際に、完全な人性を得たという。

イエスが神であることが協調される『ヨハネによる福音書』にすら、彼が旅で疲れる描写がある(4章6節)。これと同様、空腹をおぼえたり(マタイ伝4章2節)、十字架にかかって死ぬことも、神性と矛盾しないものと捉えられている。

また、受肉後のイエスは単に神が人間の体にドッキングした存在ではなく、心、精神の部分も完全に人であると説かれる。

肉体の部分は人間でも、人間の精神は持っていなかった、とする説は論者の名をとって「アポリナリオス主義」と呼ばれ、異端とされた。

預言者としてのイエス

こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」(マタイによる福音書13章35節)。

旧約聖書において、預言者は油を注がれた人々の一である。ヨハネによる福音書5章の終盤では、イエスは自身をさして「あなたたちはモーセを信じたのなら、わたしを信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである」と発言している。

これはモーセの著作と信じられていたトーラー(モーセ五書)の五冊目『申命記』18章で予言されている「わたし(モーセ)のような預言者」を指す。

これは四福音書に続く『使徒行伝』3章においてペトロ、7章ではステファノの口からも主張される。

王としてのイエス

旧約聖書において、王は油を注がれた人々の一である。福音書においてイエスは王であるダビデの子孫とされる。

彼はまた自身を人の子(メシア)だと語っており、このメシア像は旧約聖書のそれを踏襲したものになっている。

イエスは十字架にかかり処刑されてしまうが、終末の時代に天使たちを従えて再臨し裁きを行い、「栄光の座」につき、最後の審判後の新たなる世界において、神の王国を統治・主宰するという。

祭司としてのイエス

旧約聖書において、祭司は油を注がれた人々の一である。『へブル人への手紙』においてはイエスは「大祭司」と呼ばれている。

イエスの祖先とされるダビデはユダ族であり、旧約の時代に祭司職を担ったレビ族ではないが、『サムエル記 下』によるとダビデは「麻のエフォド」を身に着けて祭壇で捧げものをしている。

この「麻のエフォド」は本来、祭司の服装である。同書8章ではダビデの息子たちが祭司になったという記述がある。

これが念頭にあったのか、福音書において安息日にイエスが弟子たちと麦畑の穂を摘んでいてパリサイ派から文句を言われた際、イエスは(『サムエル記 下』22章でお腹をすかせた部下のために聖別されたお供え物のパンを祭司からもらってきた)ダビデのことを挙げ、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」と切り返している。

『へブル人への手紙』においては、創世記に登場する、レビ族など十二氏族が興される以前の「いと高き神」の祭司メルキゼデクと、イエスの祭司としての顔が結び付けられている。

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