タルソスのパウロ
たるそすのぱうろ
新約聖書の登場人物であり、また著者の一人でもある。
職業はテント職人で、ローマ帝国市民権を持つユダヤ人であった。「パウロ(パウロス)」とはギリシャ語形の呼び名でヘブライ語形の「サウロ(サウル)」とも呼ばれる。
パウロによって書かれた手紙、また聖書学によって「パウロの名で書かれた偽名の書簡」と判断された手紙は合計13存在し、新約聖書の約半分を占める。
聖書学でも彼本人の作と認められている7つの手紙だけでも4分の1を占める。初期キリスト教史で最も重要な人物の一人と言える。
四世紀の神学者ヨアンネス・クリュソストモスはパウロをあらゆる天使や大天使たちをも凌ぐ存在として称えている。
イスカリオテのユダの裏切りによって出来た十二使徒の欠員がマティアで埋められた後、イエスが選んだ使徒(後述)という事で、パウロが「13番目の使徒」として扱われる事も多い。
『ヨハネによる福音書』同様イエス・キリストを万物の上に立つ神とし(ローマ人への手紙9章5節)、「唯一の主」(コリント人への第一の手紙8章6節)とすら呼ぶ。
彼が書いたテキストと、彼に書いたとされているテキストは、ヨハネ福音書と共にキリスト教が三位一体説をとらなければならない大きな原因になっているとも言える。
パウロ書簡には、イエスの磔刑により人類の罪が贖われる、とする教えも記されている。
しかしながら、両者はキリスト教の教えの中でも非クリスチャンにとっては違和感を覚えやすい部分であり、キリスト教が相対化されるようになると
パウロを「イエスの教えを歪めた人物」、伝統的なキリスト教を「パウロ教」であると主張する一部の人々が欧米にも現れるようになった。
ユダヤ教徒男性には必ず施されるものであった割礼をキリスト教徒は必ずしもしなくても良いという見解をとり、このため後世のキリスト教世界でも、少なくとも「キリスト教徒であるための条件」としては割礼を行わない。
また食事規定についても、割礼と同じくアンテオケでおおいに議論となった。ペテロが幻で「屠って食べなさい」と、ユダヤ教で禁じられている動物が夢の中で繰り返し出てきたこともあり、キリスト教での食事規定は「お酒を酔うまで飲んではならない」ぐらいに留められている。
ガマリエルというラビのもとで律法(トーラー)を学んでいたユダヤ教徒であった。
『使徒行伝』によると、当初はナザレのイエスが興した新しい宗教を迫害しており、キリスト教最初の殉教者ステファノが石打ちで処刑される場にも居合わせていた。
それどころかステファノの処刑に賛成しており、ステファノの死を嘆き悲しむクリスチャンたちをよそに、彼は教会を荒らしまわり男女問わず牢獄送りにしていた。
キリスト教徒の男女を捕まえて縛り上げエルサレムまで引っ立ててくるようダマスカスのユダヤ教徒たちに伝えるための手紙を大祭司に書いてもらい、
ダマスカスに向かっていたところ、突然強烈な光明を受け倒れてしまう。さらに「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
サウロが尋ねると声の主はイエスであると名乗った。ダマスカスに入るようにイエスは啓示し、サウロは目が見えなくなってしまった。
周囲にいた仲間の助けで彼はダマスカス入りし、三日間そこで食べることも飲むこともせず祈った。
時を同じくしてイエスはダマスカスにいた、アナニヤというキリスト教徒の前にも現れ、やってくるサウロを受け入れるように命じた。
サウロが迫害者であることを言わずにおれないアナニヤに対しイエスが言ったところによればサウロは、
異邦人とイスラエルの民にイエスの名を伝えるために選んだ器なのだという。しかし、そのために大きな苦しみを得るとも。
アナニヤはサウロのいる家に入り、彼の上に手を置いて自分が何のためやってきたかを述べた。
すると彼が言う通り、サウロは「目から鱗のようなものが落ちて」また見えるようになり、聖霊に満たされた。
洗礼を受け、食事をとったサウロは元気を取り戻し、ダマスカスにいる信徒たちと数日間を過ごした後再び世間に姿を現した。
サウロの人格は以前とは180度変わっていた。回心後の彼はイエスこそ神の子である、と宣教する使徒へと変貌を遂げ、人々を驚かせた。
ユダヤ人たちに伝道を行い成果を挙げたはじめたサウロにユダヤの祭司たちは危機感を募らせ、殺害すべき危険人物として認定した。
こうして彼は迫害する側から、迫害される側の人間となった。それでも彼は布教をやめず、現在のギリシャ、トルコ、シリア、イスラエルの地中海側地域を
広く、三度に渡って旅し、イエスの名を伝えた。その後、エルサレムの第二神殿(後に破壊され嘆きの壁など一部遺構のみが現存する)で捕まる。
ローマ派遣の州総督と共にユダヤの地を修めていたアグリッパ王に、対して無罪を主張し、二人も認めていたが、パウロが皇帝への上訴を希望したため、
彼は裁判の為ローマに移送された。船で向かう途中に海難事故に遭うが、天使によりローマ皇帝の前に立つ運命は変わらないと告げられた。
パウロの機転により、一人の犠牲者も出すことなく船はマルタ島の浅瀬に乗り上げた。船には囚人たちも乗っており、逃亡防止のため殺される予定であったが、
同乗していた百人隊長の意向により、それはなされなかった。
マルタ島の住人に好意的に迎えられてから三ヵ月後、パウロはローマに向かい、現地のユダヤ教徒たちにローマ皇帝への上訴という事情を伝え、福音を問いた。
この後、ローマで借りた家に2年間住み、そこで来る人に教えを問いた。『使徒行伝』はこのシーンで終わっている。
この二年間は当局による軟禁期間でもあったが、彼の宗教活動を妨げられることはなかった。
ユダヤ教徒側はパウロについての訴えをすることもできたが、なされなかった。そのため、今回は皇帝の勅許により釈放されることができた。
しかし、パウロの最期は殉教だった。伝承によると、彼はローマにおいてネロ・カエサル・アウグストゥスの命で斬首刑に処せられた。
かつて皇帝ネロはパウロと面会することもなく勅許で解放したが、これは当時まだ権勢を確立しておらず、キリスト教という新興宗教にも関心がなかったせいだという。