概要
レオニード・イリイチ・ブレジネフ/Леонид Ильич Брежнев(1907~82年)
ラテン語表記としては「Leonid Il'ich Brezhnev」など
ニキータ・フルシチョフ失脚後に党第一書記(党指導者)となり、アレクセイ・コスイギン閣僚会議議長(首相)、ニコライ・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長(国家元首)とのトロイカ体制を敷いた。1977年からは最高会議幹部会議長も兼任した。ソ連の統治者としての期間はスターリンに次いで長い。
KGBを強化してスターリン時代の抑圧的政策へ回帰し、ソ連の文化や技術、経済を停滞させた一方、アメリカ大統領リチャード・ニクソンとの交渉によりソ連の勢力圏に干渉しないことを承認させ、国威を発揚した。
冷戦の中、アメリカと対抗するため重厚長大産業に莫大な国費が投じられる一方、国民の生活水準は向上せず、特権階級が「非公式経済」を享受するための汚職が蔓延った。また、ブレジネフとその親族も私腹を肥やし続けた。
ロシアが経済的に破綻した現在、ブレジネフ時代を懐かしむ国民も多い。
経歴
1906年12月19日、ウクライナのカーミヤンシケ市で、父イリヤ・ヤコヴレヴィチ・ブレジネフ、母ナタリア・デニソヴナ・マザロワの間に誕生。
1923年、コムソモール(共産主義青年同盟)に加入。
1928年、ヴィクトリア・ペトロヴナ・デニソワと結婚。
1933年、長女ガリーナが誕生。
1931年、共産党に入党。
1933年、長男ユーリが誕生。
1939年、ウクライナのドニエプロペトロフスク州共産党委員会書記となる。
1943年、第18軍の政治部長となり、年末に第18軍は第1ウクライナ正面軍傘下となった。第1ウクライナ正面軍の上級政治委員はニキータ・フルシチョフであった。
1946年、少将の階級で赤軍を去り、ドニエプロペトロフスク州共産党委員会に復帰し、第一書記となる。
ブレジネフはドニエプロペトロフスク州での人脈を権力強化に利用し、彼らは「ドニエプロペトロフスク・マフィア」と呼ばれた。
1952年、共産党中央委員会および最高会議幹部会のメンバーとなる。
1953年、スターリンが死去。ブレジネフはフルシチョフの後援によりソビエト連邦軍政治総局長第1代理に任命された。
1955年、カザフ共産党中央委員会第一書記となる。
1956年、モスクワへ戻り、フルシチョフの側近となる。
1957年、スターリン派との権力闘争でフルシチョフを支持し、政治局のメンバーとなる。
1960年、最高会議幹部会議長となる。西側への外遊により、高級車やブランド品への欲望が高まる。
1963年、フルシチョフは自らへの権力集中により党内での反発を招き、ブレジネフもフルシチョフ追放計画に加担。
1964年、フルシチョフが失脚。ブレジネフは党第一書記となる。
1965年、アナスタス・ミコヤンも失脚。共産党はブレジネフ - コスイギン - ポドゴルヌイのトロイカ体制となる。
コスイギンは経済改革を提唱した事で保守派の反発を招き、ブレジネフの発言権が増す。
1966年、「党第一書記」をスターリンの肩書であった「書記長」に戻す。
1968年、チェコスロバキア共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェクによる改革(プラハの春)に危機感を持ち、「修正主義」と批判。ワルシャワ条約機構軍を軍事介入させた。介入を正当化する論理は、西側では「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれた。
ソ連に対する期待が失われ、国際共産主義運動は分裂した。
1969年、ウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)で中ソが武力衝突。ブレジネフの在任中、中国との関係は悪化し続けた。
1972年、米ソ首脳が戦略兵器制限条約に調印。ブレジネフはアメリカとの緊張緩和(デタント)を推し進めた。
その一方で、第3次印パ戦争(1971年)、第4次中東戦争(1974年)、アンゴラ内戦(1975年)、エチオピア・ソマリア戦争(1977年)など、米ソの代理戦争が行われた。
1976年、軍隊を指揮した経験なしに、ソ連邦元帥となる。
健康状態が悪化したブレジネフは権力に強く執着するようになり、数々の勲章で自らを飾ったが国民からの尊敬を得られなかった。
1977年、ポドゴルヌイに引退を強要し、ブレジネフがソ連邦最高会議幹部会議長を兼任。
最後となるソビエト連邦憲法改定(ブレジネフ憲法)を行う。
1979年、アフガニスタン侵攻を決定。アメリカとの緊張緩和は終焉し、再び始まった軍拡でソ連の経済は悪化した。
1980年、共産圏初開催のモスクワオリンピックは、アフガニスタン侵攻を非難する諸国からボイコットされた。
1982年、心臓発作により死去。赤の広場に埋葬される。享年75歳。
アネクドート
ブレジネフ関係のアネクドートは無数にある。
『ブレジネフが誘拐されて誘拐犯から電話があった。「100万ドル払え。さもないとブレジネフを生かして帰す」』
『モスクワオリンピックでブレジネフが演説を始めた。「O! O! O! O! O!」側近が演壇に駆け寄ってささやいた。「レオニード・イリイチ、それはオリンピックの旗です。読む必要はありません」』
『ブレジネフは母親に偉くなったところを見せようとモスクワへ呼んだ。豪華な執務室・幹部用住宅・幹部用別荘などを連れ回すにつれ、母親の顔は暗くなった。「お前が偉くなって嬉しいよ。でも、ボルシェビキの連中に殺されないかね?」』
……等々。ブレジネフが共産党幹部となった後も、母ナタリアは年金受給者として古いアパートで暮らし続けた。
【参考文献】
レオニード・ブレジネフ(サカルカ)