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明智光秀(信長の忍び)の編集履歴

2017-01-14 19:04:12 バージョン

明智光秀(信長の忍び)

あけちみつひで

『信長の忍び』に登場する戦国武将であり、織田信長の配下でもある「明智光秀」。突っ込み役兼土下座担当。

概要

信長の忍び』の戦国武将であり、織田信長の配下でもある「明智光秀」。


pixivタグとしては「明智光秀(信長の忍び)」とする。

pixivタグ使用のお願い

現在、『信長の忍び』関連のpixivタグを使いやすくするために、

簡単に言うと「明智光秀(信長の忍び)」のタグをクリックすれば、関連投稿作品が一覧でパッと出るようにするために、「明智光秀(信長の忍び)」タグを張って回っております。

なるべく「明智光秀(信長の忍び)」タグを使用して下さることをお願い致します。

なお、実在の人物である「明智光秀」タグと併用するかどうかの判断は、利用者の皆さんにお任せします。

ご面倒をお掛けしますが、ご協力をお願い致します。

解説

声:立花慎之介


信長軍のツッコミ土下座担当。

なお、その土下座は芸術的迄に美しい。

史実で「金柑頭」と呼ばれていたからか、かなりの丸顔で額も広い。放浪時代~朝倉家時代は目を細めていたが、本来はパッチリ眼であり、毛利元就に向け「私の眼を見て下さい!! これがうそつきの眼ですか!?」と食い下がった際には「怖いだけなんだが」と突っ込まれている。


『尾張統一記』時代

この時はまだ斎藤道三配下。

信長の正室となる帰蝶(従兄妹)に惚れており、信長との縁談話を聞いた時は最初自分の事だと信じて疑わなかったほどで、事実を聞かされた時には銃を口に突っ込んで大泣きしつつ自害しようとしていた。その後、信長に猛烈な私怨を滾らせ、道三からは「暗殺に差し向けようか」などと思われていた。

口下手で間が悪いのはこの頃から。


『信長の忍び』時代

道三が息子・斎藤義龍に反乱をされた際に道三の命を受け美濃を脱出。各地を放浪したのち、織田信長の部下となる(勿論帰蝶の事を恨んではいなかったが、斡旋依頼の手紙を書こうとして恋文になるなど多少引き摺っていた)。

信長軍では珍しい「突っ込み担当」として重宝されている。

火縄銃達人で、二十五間(45.5m)先から的に6連続で当てるほどの腕前を見込まれて朝倉義景に仕えていたが、義景からは大道芸の一環と思われていたらしい。この銃の腕は真柄直隆との戦いで撤退にまで追い込む布石となった。



後に「本能寺の変」を起こす事になるのだが、この史実に基づいて、

  • 「まだ11年前」(1571年時点で)
  • 「後の謀反人日本代表」
  • 「お前が言うな」「光秀(あなた)はもうしゃべらない方がいい」松永久秀に向かって「必ず謀反を起こす」と突っ込んだネタや、朝倉景鏡が元主君の朝倉義景を切腹に追い込んだことに対し「恩を忘れ火を放ち切腹に追い込むなんて最低だ!」と言い放ったネタに対し)

などと、たびたび「四コマの題名」として、暗示のように書かれ、ネタとして突っ込まれている。


軍師黒田官兵衛伝』時代

初登場時には目の下に隈を作るなど『信長の忍び』の時とはまったく別人のように、すっかりやつれ疲れ果てた姿で登場。

時に1581年、「事件」が起きる前年であり、この時の四コマの題名は「おわりのはじまり」となっている。


そして、その時は来た。




この事件を起こした理由は、「あいつが背中を押したから」との事。起こした時点で他大名、武将への根回しも済んでいないなど、突発的な行動であったことが強調されている。信頼していた細川藤孝(娘婿細川忠興の父親)にも「天下を取れる器ではない」と言われて(けじめのために幽斎は出家)助太刀を拒まれ、娘・も(前述した)「今まで言ってきた裏切者への発言が全部帰ってきた」と嘆いていた。


また「生まれ変わったらになりたい」と漏らすなど、俗説を意識した言動となっていう。


関連イラスト


関連タグ

重野なおき


信長の忍び

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