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大村益次郎の編集履歴

2017-03-27 00:52:02 バージョン

大村益次郎

おおむらますじろう

幕末に活躍した長州出身の軍事指導者。「日本陸軍の父」ともいわれている。

概要

生没年 文政8年(1824年)~明治2年11月5日(1869年12月7日)


長州出身の洋学者、兵学者。旧名「村田蔵六」。

第二次長州征討において軍事指導者として長州軍を指揮して幕府軍を破り、戊辰戦争においても参謀として官軍勝利に貢献した。


生涯

 文政8年(1824年)5月3日、周防国鋳銭司村(山口県山口市)の村医者の家に生まれる。

 弘化3年(1846年)、蘭方医としても有名な緒方洪庵の私適塾に入門し塾頭にもなるが、嘉永3年(1850年)、故郷に帰り村医者となる。

 

 嘉永6年(1853年)、藩主・伊達宗城のもと洋学研究に熱心な宇和島藩に出仕。輸入された洋式兵学書の翻訳、蒸気船の設計・開発、建造に携わる。

  

 安政3年(1856年)、江戸において私塾・鳩居堂を開塾、次いで幕府に招かれ洋式兵学書の翻訳研究を担当する蕃書調書教授手伝から講武所教授に就任する。

 大村としては、ひとりの武士が武勲を競いあう旧来的な戦術は時代おくれと考えており、ひとりの指揮官が戦場全体を俯瞰的に把握、陣形を構築する西洋式の戦略こそこれからの時代に合うと考えていたようである。

 ところが当時の幕府を率いていた老中首座・阿部正弘は欧米列強の脅威には理解を示していたものの、幕藩体制を支える武家社会をこわすことになるこれらの改革をなすことはなく、大村は阿部に軍事的に無策な幕府に失望したとの書簡を送っている。

 

 万延元年(1860年)、幕府出仕のまま長州藩に迎えられ、軍制改革に参画。

 文久3年(1863年)、萩に帰り、藩校・明倫館の兵学校助教授に就任。

 

 元治元年(1864年)、長州藩が京の都に火を放ち、間隙を縫って孝明天皇の身柄を長州に迎えようとの陰謀が発覚し旅館・池田屋に新選組が急襲する事件が起きる(池田屋事件)。

 同年7月、窮地に陥った長州藩は、失地挽回を狙って軍勢を京に差し向けるが、会津・薩摩両藩が主導する幕府軍に敗退、朝敵の烙印を押される(禁門の変・蛤御門の変)。


 元治元年(1864年)11月、孝明天皇は幕府に勅命を下し、第一次長州征伐が始まる。

 この戦いは幕府の勝利に終わり、藩主父子は江戸に赴いて謝罪し、家老3人が切腹するとの約束でことを収めることとなった。

 

 幕府軍撤退後、長州では高杉晋作らによるクーデターが起き、対幕強硬派が実権を握ることとなる。この結果、藩主父子の江戸下向は反故となり、慶応2年(1866年)3月、幕府は再び軍を動かして長州を討つことを決断、第2次長州征伐が始まることとなった。

 

 この間、長州では薩摩と秘密同盟を結ぶ一方、大村が軍制改革に着手。幕府軍との戦いでは旧式のを身につけることなく新式の銃・火砲をもって幕府軍を圧倒、高杉晋作率いる騎兵隊のゲリラ戦法に苦戦し小倉城は落城、さらには将軍徳川家茂が大坂で戦病死したことにより幕府軍は撤退、事実上の敗戦に終わり、幕府の権威は地に堕ちることとなった。

 

 以後、戊辰戦争にも従軍。

 明治元年(1868年)、上野寛永寺に籠った彰義隊を一日で鎮圧。関東の治安を維持する役割を担うことになるが、その合理的な思考は薩摩の海江田信義をはじめとする守旧派武士の反感を買ったという。

 

 明治2年(1869年)、明治新政府の兵部大輔に任じられ、軍制改革を担うことを期待されるが、9月、守旧派に襲われ負傷、破傷風を併発して11月に死去した。

その後建立された靖国神社で最初に奉られることとなり、参道には銅像が据えられている。


関連タグ

江戸幕府 幕末 明治維新

福沢諭吉:大阪時代の同期。

花神:司馬遼太郎原作、大村を主人公として1977年度のNHK大河ドラマにもなった。

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