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ペギー葉山の編集履歴

2017-07-08 21:49:37 バージョン

ペギー葉山

ぺぎーはやま

ペギー葉山(1933-2017)とは、日本の歌手。

概要

本名・小鷹狩(こたかり)繁子(→森繁子)。

東京都新宿区四谷の生まれ。本来は1933年11月生まれだが、お爺ちゃんが出生届を出し忘れたため同年12月生まれにされてしまった。


青山学院中等部→女子高等部(現在は男女混成)卒業。中等部在籍時代は声楽をプライベートで学んでいたのだが、在日米軍向けのラヂオ放送で洋楽に傾倒、女子高等部在学中から在日米軍キャンプにてジャズなどを歌う様になった。さらに渡辺弘が率いていたジャズバンドのスター・ダスターズの専属歌手も勤めた。


青山学院女子高等部卒業から半年以上経った1952年11月に「炎の接吻」という洋楽のカバーソングでレコードデビューを飾る。ただ、このシングルのB面の曲だった「ドミノ」(こちらも洋楽のカバー)の方が有名になってしまった感は否定出来ない。


その後も「南国土佐を後にして」、「爪」、「ラ・ノビア」、「ドレミの歌」などのヒットを飛ばした。

また、歌手以外でも「ウルトラマンタロウ」における、ウルトラの母の地球上での仮の姿や、「ひらけ!ポンキッキ」におけるしつけのおばさんでも親しまれた。

さらに、1965年には大映の二枚目俳優だった(後にヒールもこなすオールマイティープレイヤーに転向)根上淳と結婚、2005年に根上が死ぬまでより添い遂げた。


2017年4月、東京都内の病院で急死。享年83歳。


ネタ

人間長生きすりゃー何とやらとはよく言ったもので、この方もネタ多き人生を送ってきたと言えよう。その中からほんの一部を取り上げてみる。


  • プロ歌手になって間もない頃は、営業先で芸名を「ペンギン葉山」だの「ペリー葉山」だのと間違えられる事がたびたびあった。
  • 「学生時代」は彼女の高校時代をモチーフに作られた、はずだったのだが、作詞(・作曲)を手掛けた平岡精二は「大学時代」というタイトルをつけてしまった。これにペギーは「誰だって大学に通える訳じゃないし、そもそも私は高卒や!!」とマジギレ平岡と大喧嘩になってしまった。その結果あのタイトルになった次第。なお、歌詞の中にあったチャペルは実在する。
  • NHK紅白歌合戦に合計14回お呼びがかかったものの、これは歌手としての実績であり、実際には15回出演している。実は1度紅組司会(キャプテン)を勤めたばっかりに歌わせてもらえなかったのだ(九重佑三子もこれに引っかかった。ほならチータや佐良直美などはどないなるんや!?)
  • 「ドレミの歌」は本来食べ物でまとめようとしたが、「ファ」はファンタしか思い浮かばず、しかも商品名のためNHKでは放送出来なくなる危険性があるため、そのやり方を止めた。
  • 1952年のレコードデビューからラストシングルCDとなってしまった2016年10月リリースの「おもいでの岬」まで、一貫してキングレコードに在籍したのだが、アニソンを手掛けたのは、意外な事に、1973年の「冒険コロボックル」(エイケン制作、読売テレビ日本テレビ系列+1)の主題歌およびエンディングテーマのみだった。

「南国土佐を後にして」絡み

彼女の代表曲と言える存在ではあるが、同時にネタソングでもあった。

  • NHK高知放送局テレビ放送開始記念特番の公開生放送のために、NHK側はこの曲を彼女に歌ってもらおうとした。しかし、「私はジャズシンガー。こんな曲歌えるわけねぇだろ!!」と断られてしまう。
  • 故に本人に対しては、デビュー曲(のB面)「ドミノ」を歌ってもらう、と伝えたものの、「NHK舐めんなバーカ」とばかりに、当日になって、「ペギーさんやっぱりあの曲歌っていただきますのでよろしくー」と、それ以前にリリースされていた曲のレコードを半ば強引に聴かせたうえで本番に臨ませた。あまりの仕打ちに本気でトンヅラを考えたペギーであったが、観客のあまりの盛り上り様に、歌う事を余儀なくされてしまう。
  • 翌年シングルレコードとして発売したものの、ペギーの心情を考えてか、トルコの「歌謡曲」である「ドクトルジバンヌ」(のカバー)のB面という形でのリリースとなった。もちろん、あくまでもキングとしてはA面とB面はまるっきり逆にして売り込むつもりではあったが。
  • この曲はNHK(特に高知放送局)とキングの思惑通りに大ヒット、日活の手で映画化された。ただし主演は小林旭であり、ペギーはチョイ役でしかなかった(むしろ本人のスケジュールやこの曲に対する心情を考えれば仕方のない事ではあったが)。なお、この映画もまた当たったのだが、これが元で作られたのが、あの「渡り鳥シリーズ」である。
  • 実は、元々は1939年6月に香川県で結成された日本陸軍第40師団歩兵236連隊の「軍歌」として歌われていたものであり、生き残った復員兵達によって広まった歌であった。その事を後に知ったペギーは「先にそれ言ってよー、そしたらあの曲に対する感情かなりマシになってたからー・・・・・・・」とボヤいたという。なお、ペギーの夫の根上は、学徒出陣の生き残り、かつ戦友の多くを特攻隊で亡くしてしまったこともあり、「どんなに土下座されても戦争映画には出ない!どんなにゼニ積まれても(仲間達を死に追いやった)軍人の役は絶対にイヤだ!!」と言い続けたのだからある意味皮肉な話である。
  • 帰ってきたウルトラマン」の中で、MAT隊長の伊吹がこの曲を楽しそうに聴いているという、この人の役を根上が演じたが故のネタをやらかしたことがある。

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