- 平安時代の刀工・三池典太光世により作られたとされる日本刀。この項目で記述する。
- 1の刀剣をモチーフに擬人化した、ブラウザゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』に登場する刀剣男士。→ソハヤノツルキ(刀剣乱舞)
概要
妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリは、平安時代末期から鎌倉時代筑後国の刀匠三池典太光世作と伝わる日本刀(太刀)。
ソハヤノツルキ、ソハヤノツルキウツスナリとも。
刃長67.9cm、元幅3.9cm、先幅2.8cm、反り2.5cm。
生ぶ無銘であるものの茎の裏に「妙純傳持ソハヤノツルキ」、表には「ウツスナリ」と切付銘が刻まれている。この切付銘は室町時代のものと考される。
なお、古文書同様に濁点を省略していると考えられるため「そはやのつるぎ」とも呼ばれる。
切付銘の謎
茎に刻まれた切付銘(銘文)をそのまま解釈すれば妙純が所持したと伝えるソハヤノツルギの写し刀となる。
ただし定説はなく、史料に乏しいため意味不明とされている。
妙純傳持
室町時代中期の美濃国守護代斎藤利国の入道名が妙純であることから、斎藤妙純が所有したのではないかとされる。
妙純を慕った者が妙純傳持と切付銘を刻んだと考えられている。
ソハヤノツルキ
ソハヤノツルキは後述のウツスナリから写し刀とされているが、本歌となるソハヤは複数の説がある。
1.の田村麻呂が日本三大妖怪の鈴鹿山大嶽丸を斬ったことで有名な騒速の写しとする説が一般的である。
上記三説のうち、唯一現存が確認できるのは播州清水寺が所蔵、東京国立博物館が保管している騒速のみとなる。
刀身には反りがあるものの、ソハヤノツルキとは根本的に異なるため、一般的な本歌と写しとは考えられていない。
2.の楚葉矢の御剣とする説は、子嶋寺の旧重宝という楚葉矢丸とも呼ばれた名剣の写しとされる。
滋賀県田村神社の什宝(重宝)として「剣 一口 長九寸五分少し缺けたり、古来之を楚葉矢濃劍と云傳ふ。作者詳ならず。」とある。
子嶋寺のある高取町一帯は、坂上氏の本貫地で田村麻呂の出生地とされる。京都東山の清水寺は開山を延鎮、本願を田村麻呂としているが、延鎮は子嶋寺の僧であった。子嶋寺と田村麻呂の縁が強いため、楚葉矢の御剣が子嶋寺に所蔵されていたとしても不思議はない。
また、田村神社は坂上田村麻呂を主祭神とする神社である。
3.は、ソハエはソハヤの転化であるとして、ソハエの剣ではないかとの考察によるものである。八剣は天叢雲剣、草薙剣、東夷討取の剣、十拳剣、人母鬼の剣、鬼討取の剣、楚葉矢の剣、矢尻の笹穂型の槍とされる。
上記の子嶋寺の楚葉矢の御剣が八剣宮のソハエの剣であるともされる。
ただし天叢雲剣と草薙剣と同一の剣である事や、草薙剣は熱田神宮に祀られているため、八剣自体が創作の可能性もある。
なお坂上宝剣の写しとする説や、黒漆剣の写しとする説もあるが、これらは誤説である。
騒速が知られる以前に坂上宝剣がソハヤであると刀剣書で紹介されたことから、ソハヤと坂上宝剣が同一の剣として広まったものと思われる。
また、田村麻呂の大刀として鞍馬寺の黒漆剣のみが知られていた事から、黒漆剣がソハヤであると誤解もされた。
坂上宝剣と黒漆剣はいずれもソハヤではないため、ソハヤノツルキがこれらを写したとする説は成立しない。
ウツスナリ
ウツスナリの意味についても様々な説がある。
- 刀身は鎌倉時代のものとされるが、切付銘(銘文)の書体は室町時代以降のものとされる事から、後から名前だけ写したという説
- 三池光世の時代に写しという文化があったとは考えられていないため、光世がソハヤと呼ばれる刀をイメージして製作した説
1.は、ソハヤノツルキの作者は従来通り光世とされる。この場合は室町時代以降に切付銘が入れられていることから、本歌と写しの関係ではなく、和歌の本歌取りのように名前だけを拝借したものと考えられる。
2.は、光世作のソハヤノツルキと呼ばれた太刀を、斎藤妙純が和泉守兼定(之定)に写させたものではないかとしている。この場合、光世作のソハヤノツルキは熱田神宮のソハエの剣とされる。
光世説、之定説ともに光世がソハヤノツルキを製作している点は共通している。
家康の遺愛刀
伝来は不明であるが徳川家康の手に渡ると、家康は行光作の脇差と揃えでソハヤノツルキウツスナリを愛刀とした。
大坂の陣で豊臣家を滅ぼした家康は、徳川幕府を脅かす者がいるとすれば西国にあるとして、この太刀を自らの依り代として久能山東照宮にて切っ先を西に向け安置するよう遺言したという。