重要
広幡家は江戸時代前期、正親町天皇の皇孫で陽光院太上天皇誠仁親王の第六王子・八条宮智仁親王の三男忠幸が、1664年(寛文4年)に源氏の姓を賜り一家を創立し、廣幡を称したことに始まる。忠幸は最初、尾張藩に赴き名古屋城で暮らしていたが、のち帰洛して公家となり大納言にまで進んだ。
1669年(寛文9年)、忠幸が薨去して男子がなかったため断絶するところだったが、同じく源氏で清華家の家格をもつ久我家からの養子継承が許された。ただしこの時に家禄を当初の1,000石から500石に減らされている。
江戸時代の広幡家当主は代々五摂家のひとつ近衛家の猶子となり偏諱を賜っている。
明治維新後、1884年(明治17年)に制定された華族令により当時の当主忠礼は侯爵位を賜る。その子忠朝は侍従を務めた。忠朝の子・忠隆は逓信省に入って灯台局長・管船局長となり、さらに宮中に入り皇后宮大夫兼侍従次長を務めた。
広幡家の人物
広幡忠幸(正親町天皇の玄孫、八条宮智仁親王の王子、正親町源氏)
広幡幸子