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山階宮晃親王の編集履歴

2018-12-09 20:09:48 バージョン

山階宮晃親王

やましなのみやあきらしんのう

山階宮晃親王とは幕末から明治時代の皇族、山階宮初代。

概要

伏見宮邦家親王の第一王子、久邇宮朝彦親王北白川宮能久親王などがいる。

プロフィール

続柄伏見宮邦家親王の第一王子
身位親王
敬称殿下
出生文化13年9月2日(1816年10月22日
死去明治31年(1898年)2月17日
配偶者中條千枝子
子女菊麿王(実子)、定麿王(養子)
父親伏見宮邦家親王
母親藤木寿子(家女房)

父親

理由は不明だが、系譜上は祖父の伏見宮貞敬親王の第八王子とされる。

経歴

文化13年(1816年)に誕生、幼名は静宮(しずのみや)、初名は清保(きよやす)、文化14年(1817年)に京都の山科の勧修寺を相続し、その後光格上皇の養子になる。文政6年に親王宣下、翌年の文政7年に出家し済範(さいはん)入道親王と称した。天保12年(1841年)10月8日に叔母あるいは妹の隆子女王とともに明石姫路に出奔。その後京に戻るが仁孝天皇激怒させてしまい。天保13年(1842年)7月22日に光格天皇養子・二品親王・勧修寺門跡と伏見宮から追放された。その後東寺で謹慎をする。その後、安政3年(1856年)謹慎が解かれ、安政5年5月に勧修寺に戻り、氷室殿と称する。

文久3年(1863年)に島津久光松平容保一橋慶喜の公武合体派が時勢への見識が高く、海外情勢に関心が高い親王に政治に参加させるため親王に還俗させるよう孝明天皇に願い出る、天皇は親王の還俗には朝廷が反対しており、父の仁孝天皇を怒らせ処罰された人物を還俗させるのを孝明天皇は反対しているが幕府や大藩に押し切られ、1月9日に還俗を許し伏見宮に復し、山階宮の称号を賜った。同月27日に天皇の養子となり、親王宣下を受けて、翌日に国事御用掛となる。

その後島津久光と手を結び、一会桑政権と対立。慶応2年(1866年)8月30日に大原重徳などの対幕府強硬派公卿22名が行った参内に加担したことで国事御用掛を罷免、蟄居を命じられた。慶応3年(1867年)に孝明天皇が崩御し、3月29日に処分を解かれた。

明治維新後、慶応4年(1868年)1月17日、議定・外国事務総督に就任。2月20日に外国事務局督と名称が変わり、明治政府の外交トップとなった。その直前に発生した堺事件の後始末のため、フランス艦に謝罪に赴いている。その後4月21日に議定・外国事務局督を辞任した。


1886年(明治19年)に大勲位菊花大綬章を受けている。1898年(明治31年)2月17日、83歳で薨去した。


その後山階宮は王子の菊麿王が継いだ。

系譜

父:伏見宮邦家親王

母:藤木寿子(家女房)

妻:中条千枝子(家女房)

王子:定麿王(養子)、菊麿王

関連タグ

皇族 伏見宮 山階宮 勧修寺

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