概要
京成電鉄が運営している鉄道路線の1つ。京成本線の京成成田駅(成田駅)から東成田駅までを結ぶ。営業キロ7.1km。途中の駒井野信号場までの区間は、京成本線との重複区間としている。
歴史
東成田線は成田空港の建設計画やその後の情勢の変化によって、さんざん振り回された歴史を持つ路線の代表格と言っても過言ではない。
1960年代後半に成田空港の建設計画が進行すると、京成も京成成田駅から新空港に至るアクセス路線を建設することに強い関心を持った。背景としてライバルである国鉄総武線の複々線化工事が始まっており、1968年には成田までの電化も完成していたことも影響したとみられる。しかしながら当時は都心へのアクセスとして成田新幹線が考えられており、国も省庁も、さらに空港建設公団も一私鉄で設備も貧弱な京成線の延伸には冷たく、ようやく確保できた空港駅の用地は空港ターミナルから大きく外れた、敷地の一角を与えられたと言えるような場所であった。
しかしながら建設中の1971年頃になると、本来直接競合するはずの成田新幹線の建設計画の雲行きが怪しくなり、今度は逆に開港予定の1973年までに完成させるよう急かされるようになる。そのため新線の工事が急がれ、そして1972年にはアクセス用の特急車である「AE形」が完成する。
また、都心側のターミナルである上野駅も改良工事のため一時的に一部区間(上野~日暮里駅)を全面的に運休させるなど、まさに「社運を賭けた」大工事が行われたのである。
しかしながら肝心の成田空港の建設は、新左翼勢力まで巻き込んで暴動化した反対運動の影響で遅れに遅れており、さらにテロの危険から施設の完成後もまともな試運転すら出来なかった。
これら使用できない施設の膨大な維持管理費は、既に不動産事業の失敗で傾きかけていた京成の経営に大きく影を落とし、スカイライナー用に用意した新車も当初は暫定運行を認められず車庫で雨ざらしのままであり、その窮状を当局に泣きついて、ようやく暫定的な営業運転に漕ぎつけた逸話がある。
1978年になってようやく成田空港が完成・開港、新線も京成本線の一部として開業するが、当時は海外旅行は一般化しておらず、また成田空港駅で路線バスへの乗換えが嫌われ、何より成田空港自体が過激派によるテロの危険と、それによる戒厳令並みの厳重な警備で、単なる送迎ですら近付き難い環境であったことから、自慢のスカイライナーですら客足は全く伸びず空気輸送が続く有様であった。京成も過激派から攻撃の対象になり、施設の破壊や車両の放火などの重大事件も数度に亘って発生している。またこの時期、京成電鉄自体も倒産寸前の深刻な経営危機に直面している。
こうした状況が改善されたのは、1980年代後半に入って海外旅行が一般化するようになってからである。その頃の日本ではプラザ合意による円高で、これまで非常に高額だった海外旅行が一気に低価格化した事情もあった。さらにバブル景気に突入して、スカイライナーの乗車率もこれまでの閑古鳥が嘘のような盛況ぶりに転じたのである。
しかし、空港側のターミナル駅が中途半端な立地であり、不便な状況であることは変わっておらず、ライバルのリムジンバスも首都高速道路や京葉道路の慢性的な渋滞のため定時制は大きく損なわれていた。
また、建設されるはずだった成田新幹線は計画自体が消滅して、部分的に確保された用地と建設された遺構が残っている状態だった。
空港アクセスに行き詰まりを見せ始めていた状況下、新幹線計画のために確保・建設していた遺産を活用して、「既存の鉄道路線を空港ターミナル直下まで延伸すること」を提言したのが、時の運輸大臣であった石原慎太郎である。
こうした激動の経緯を経て、1991年の成田国際空港(成田空港)の旅客ターミナル直下への乗り入れにあわせて京成本線のルートが変わり、ルート変更前の区間を「東成田線」へ改称させた。そして2002年に空港建設の見返りとして芝山鉄道が開業し、芝山千代田駅までの相互直通運転を開始して現在に至る。
運行間隔
芝山鉄道線も含めて、日中は京成成田~芝山千代田間の普通列車が40分間隔で運行されている。
また、朝と夜の時間帯は京成本線へ直通する普通・優等列車が運行されている(最大1時間当たり3往復)。