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袁紹の編集履歴

2020-09-19 10:58:41 バージョン

袁紹

えんしょう

袁紹とは、中国後漢末期の武将。字は本初(ほんしょ)。 後漢時代の名門・袁家の出身。

概要

後漢時代に4代にわたって三公(当時の最高職である司徒、司空、太尉のこと)を輩出した汝南の名門袁氏の出身。若い頃は威厳のある風貌で謙虚で清廉と評判されていたため、多くの者から慕われた。曹操とも旧知の仲。後に何進の属宦として朝廷に仕え、エリート集団の西園八校尉にも名を連ねた。

その後、当時の朝廷を掌握していた宦官・十常待と敵対し、何進と共に彼らの一掃を謀るも、何進が暗殺されてしまう。この事態に袁紹は宮中に兵を進め、宦官を皆殺しにした。

しかし、この混乱に乗じて権勢を得た董卓とも帝の即位を巡って対立し、敗れて冀州に逃れた。暴虐に振舞った董卓に対抗するべく反董卓連合軍が結成されると、曹操の推薦で盟主となる。この連合軍は洛陽の奪還には成功するも、董卓の討伐には失敗し、内部紛争から瓦解してしまう。其の後に公孫瓚が野心を露わにしてきた冀州の刺史である韓馥から冀州牧の地位を譲り受けた袁紹はこの頃から一族の有力者袁術と敵対し、戦火も交える事態となっていた。

そのさなか、袁術軍に派遣されていた公孫瓚の従弟である公孫越が袁紹軍との戦闘で戦死し、一族の死に激怒した公孫瓚に対して、袁術の他に後方にも巨大な敵を作る事を恐れた袁紹は公孫瓚の従弟である公孫範を渤海太守にして相手との講和を図るも、勢いに乗る公孫瓚は部下を勝手に青州・冀州・兗州の刺史などに任命し、そのまま冀州に侵攻した。両軍が激突した界橋の戦いで袁紹は対騎馬戦のエキスパートである麹義の活躍もあり公孫瓚を撃退し、その侵攻を止め、冀州での自身の基盤を固める事が出来た。

その後も公孫瓚との戦闘は続き、一時は朝廷の執り成しで和議を結ぶ事もあったが、公孫瓚が幽州牧の劉虞を殺害して人心を失ったのを機に、これに乗じて次第に彼を圧倒して遂にこれを滅ぼし河北に一大勢力を築く事となる。

そして、時を同じくして中原の二大勢力にまで成長した同盟者であった旧友曹操と、官渡で雌雄を決することとなる。武将を討ち取られながらも圧倒的物量を活かして連戦連勝する。しかし、やがて内部対立が深刻化し、許攸の裏切りによって食料庫がバレてしまったこともあり、決定的な敗北を喫してしまう。結果、袁紹は本拠地冀州に撤退を余儀なくされる。

以後、冀州では反乱が続発するもそれら全てを鎮圧し、一定の勢力保持には成功する。また、曹操も袁紹存命中は河北に侵攻しなかった。しかし202年5月、病死した。更に明確な後継者を定めていなかったことが災いし、以後の袁家は長男袁譚と末子袁尚の相続争いにより衰退。最終的に曹操に滅ぼされた。

評価

日本の戦国武将今川義元に似て、その業績に比べ非常に世間的評価が低い群雄である。

官渡の決戦における優柔不断な行動だけで全てを語られがちであるが、上記の様に軍師や将軍達を御しきれていた官渡以前は連戦連勝であった。

官渡でも兵糧を奪われるまでは緒戦で文醜、顔良を討たれるという失策はあったものの「盾を構えていなければ砦の中を歩けない」と表されるほどに曹操軍を終始圧倒していたといわれる(実際、曹操も弱気になって荀彧や郭嘉に励まされている)。

兵糧庫をバラすという許攸の寝返りさえなければそのまま勝利していても全く不思議はなかった。

また、内政面では魏どころか晋の時代になってさえ「袁家の治世が懐かしい」と懐かしむ民がいたと史書に残されており、非の付けどころのない優秀さであった。

またしばしば「河北の名族」といわれることもあるがこれも間違いで、袁紹の出身は汝南。袁術が割拠した淮南地方が袁家の拠点であり、河北はもともと袁家の力の及ばぬ土地であった。事実袁紹配下には親戚がほとんどおらず(息子の他は、甥が一人)、己の知恵と才覚だけで、急速に豪族を手懐けていった末の「河北の覇者」であった(曹操は対照的に、曹氏・夏候氏の勢力を率いて旗揚げした)。


あまり知られていないことではあるが、官渡後も袁家は変わらず強大な勢力を保っており

勝利した曹操もうかつに手を出す事ができなかったようである。

曹操が中原を制することができたのは袁紹が予想外に早く亡くなり(官渡のわずか二年後に亡くなっている)、その後の後継者争いにつけこんだ事が大きい。

この事は奇しくも曹操の後継者選びの際に引き合いに出されている。


袁術とは 腹違いの兄弟とされ、袁紹の方が母親の血筋が低いため、家柄に対し大きなコンプレックスを抱いていたという説もある。


登場作品

真・三国無双シリーズ

無双5袁紹

袁紹(真・三國無双)も参照


蒼天航路

CV:てらそままさき

大体が他作品同様だが、揶揄するような曹操に対し度々激しく怒りツッコミを入れる姿が見られた。また能力は多才な曹操と比較して、曹操の臣からも低く見られがちであったが、曹操自身はその能力は必要なものだけ備えており不要なものは一切ないと評している。

また官渡の戦いでは成長を遂げ、前記のように顔良を討ち取られ、更に曹操に揶揄され怒りに震えるも、味方の犠牲は多かったが白馬津を占拠し橋頭保を確保した戦略的勝利と思い直し怒りを鎮め配下に喜べ、と言ったり、劉備達の義侠心を叶えることは戦に必要な事ではないとしながらも、その在り様は己の治世で認められるものとしたり、与えた軍勢を失った上に関羽を失って情けない姿を晒す劉備に窮鳥懐に入れば猟師も殺さない世とするのも己が治世と食事を与えたり、彼が出陣するだけで兵の士気を高めたり、己が治世での曹操も閣僚に含めた政権構想は曹操からも良く出来ていると評価されるものであった。しかし、己の理想のあまり、官途の戦いの終盤に大きくデブ・・・もといイメチェンをはかった事から醜いと曹操の失望と怒りを買うこととなる。

実はそれは曹操がその真意を読み違えたものであり、曹操がそんな過ちを犯した数少ない人物の一人である。


三国伝

袁紹バウ

袁紹バウも参照


恋姫†無双

麗羽さん

麗羽も参照


十三支演義

声:平川大輔


関連タグ

三国志 曹操

袁術 袁譚 袁煕 袁尚

顔良 文醜 逢紀 郭図 審配 田豊 沮授

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