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エンフィールド銃の編集履歴

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エンフィールド銃

えんふぃーるどらいふるますけっと

イギリスのエンフィールド造兵廠で製造されたパーカーションロック方式の前装式小銃(施条銃)。

概要

エンフィールド造兵廠で製造され、1853年から1866年までイギリス軍に制式採用されていた小銃

弾丸の形状が若干異なるがミニエー銃に分類される。幕末日本に大量に輸入され、全国の諸藩がした。1866年以降は、センターファイアー式の実包を使用するスナイドル銃への改造が進められた。戊辰戦争では新政府軍の主力小銃であった。


歴史

1847年にクロード・エティエンヌ・ミニエー大尉によってミニエー弾が開発されると、欧米各国でミニエー銃の製造が始まった。その中でもイギリスで開発されたエンフィールド銃は有名で、クリミア戦争が始まると、時代遅れとなっていたP1851 Enfield rifle musket(この銃もミニエー銃である。)に取って代わり、インド大反乱や、クリミア戦争太平天国の乱や、マオリ族鎮圧でその完成度の高さが証明された。アメリカの南北戦争では、北軍の標準装備であったスプリングフィールド銃の生産数が追い付かなかったことや、当時の民間軍需品製造業者には粗悪品を平気で納入するケースが多かった事から“世界の工場”だったイギリスで大量生産され、信頼性が高いエンフィールド銃が輸入されるようになり、同じミニエー銃であるオーストリア製のM1854ロレンツライフルと共に使用された。


また工業基盤が未熟だった南軍は開戦当初から輸入兵器に依存しており、なかでもエンフィールド銃はその命中精度と威力の高さから南軍でも大量に使用された。イギリス政府は南軍の劣勢が明らかになると南部への輸出を禁止したが、武器商人によって最終的に90万挺が輸出されている。


中でもエンフィールド銃を歴史上有名にしたのは、本銃が使用する紙製薬包が原因でインド大反乱を起こした事だろう。紙製薬包は、バラバラの状態では扱いにくく戦闘中に引火する危険も高かった黒色火薬を一発分の分量に小分けして、グリス(当時は動物性のもので牛・豚脂が代表的なものだった)の塗られた弾丸とセットにして紙で包み、その表面に蜜蝋牛脂混合物が塗られたものである。


この弾薬包には、銃身と弾丸の間に紙を噛ませる事で、弾丸がバレルと摩擦する際の高熱で発生するのこびりつきを予防するという大事な役割があり、表面に塗られた蜜蝋と牛脂は摩擦を低くするための潤滑の役割を果たしていた。また湿気を帯びると着火し難くなる黒色火薬を護るために薬包の表面をコーティングして防湿する事も、古くから用いられてきた一般的な方法だった。


この弾薬包を使ってエンフィールド銃を装填する際には、まず口で弾薬包の端を食いちぎって火薬を銃口から流し込み、薬包に包まれたままの状態で弾丸を銃身内の奥までRamrod(サク杖)と呼ばれる棒で押し込み、ニップルに雷管を被せて射撃体勢を取る。

この弾薬の装填、すなわち「牛・豚脂を塗った紙筒を口にして歯で噛みちぎる」行為は、ヒンドゥー教イスラム教双方にとっての禁忌であり、それまで犬猿の仲だったセポイインド人傭兵)内のヒンズー教徒とイスラム教徒が、イギリスを共通の神敵と見なして武装決起、インド大反乱の原因となったといわれている。


ミニエー銃が開発される以前の銃

16世紀に、小銃歩兵の主力になってから、エンフィールド銃を含むミニエー銃が開発されるまでの間、マスケット銃(日本語ではオランダ語で小銃という意味の「ゲベール」という名で呼ばれた。)と呼ばれた滑腔式というライフリング(弾丸に回転する力を与え、精度と威力を向上させる為に掘られる螺旋状の溝)が彫られていない銃と、銃身にライフリングが彫られたヤーゲル銃(ヤーゲルとはオランダ語のJagerないしドイツ語のJägerに由来し、猟師猟兵の意味。英語読みではジャガーライフル)タイプの2種類が使用されていた。


マスケット銃は、銃身より内径が小さい弾丸を装填するため、ヤーゲル銃に比べ装填速度が速かったが、弾丸が銃身内に密着しないため、発射時に銃身と弾丸の周りにある隙間から発射ガスが漏れてしまう。そのため命中精度が低く、長距離の射撃には向いていなかった。

実際、19世紀初頭までイギリス軍に使用されていた。「ブラウン・ベス」マスケット銃の有効射程は100ヤード(91m)であった。


このためマスケット銃は、狙撃や長距離の射撃には使われず、短い距離まで敵陣へ接近してから一斉射撃を浴びせて、混乱した敵陣に接触して銃剣で最終的に制圧する戦列歩兵用として大量に配備された。


一方、ライフリングが彫られた銃(ヤーゲル銃を含む)は、ライフリングが彫られているため、マスケット銃に比べ射程が長く、当時のライフルの有効射程は200ヤード程であった。(これはマスケット銃の有効射程の2倍に当たる。)

そして、弾丸がライフリングに密着して回転するため、高い命中精度を出すことができ、マスケット銃の様に発射時に銃身と弾丸の周りにある隙間から発射ガスが漏れてしまうことがなかったたので高い威力を持っていた。

しかし、球弾をパッチと呼ばれる布片にくるみ、ライフルに喰い込ませながら装填するため非常な労力が必要だったので、再装填には時間がかかり戦列歩兵の用途には適さなかった。


このため、散兵や猟兵に持たせて敵の指揮官砲兵を狙撃するために良く用いられたが、ライフリングを手作業で刻めるマイスターの職人芸に依存して製造されていたためマスケット銃よりも格段に高価であり少ない数しか配備されていなかった。


軍採用の例として、ヤーゲル銃の他に先駆者としてフランス製のステム・ライフルがあるが、これは装填した弾丸を銃口から槊杖で突いて変形させる手間を伴っており、簡便な方式とはとても言えなかった。


ミニエー銃の方式

ミニエー式に使用される弾丸は椎の実(しいのみ)型で多くは周囲には溝が切られ凹凸(この溝は「タミシエ・グルーヴ」と呼ばれる。)があり(この溝を持たないものもある)、これは銃身保護用にグリス状の脂が付着させるものである。

底部がスカート状に窪んでおり、窪みはコルクなど木栓を差し込むようになっている。(これを、「圧入プラグ(plug)」と呼ぶ。)これによって発射時の圧力で押し込まれた木栓がスカートを外側に膨張させると、弾丸周囲の溝の凸部は銃身内のライフリングに食い込みながら密着する。この工夫で圧力の漏れを完全に無くし、ライフリングが弾頭を回転させる力を的確に与える事に成功している。後にエンフィールド弾として直接、鉄のキャップを食い込ませて木栓が要らない方式に改良されている。


発射されるまでのミニエー式の弾丸は銃身の内径より小さい寸法であるために銃口から弾丸を押し込む際の労力は少なく、ライフリングを持つため命中精度が高くガス漏れを防いで射程距離を延長し弾速が上昇した事で威力が強化された。

つまり、ミニエー銃はマスケット銃とライフルの長所を全て集結させた銃と言えるだろう。


また、産業革命による製鉄業と工作機械の発達は銃身にライフリングを安価に刻んで大量生産する事を可能とし、ミニエー式を歩兵銃として配備・運用する事が可能になった。


エンフィールド銃の性能と、ミニエー銃が戦争にもたらした変化

エンフィールド銃の性能

全長 55インチ(1,397mm)3バンド型 49インチ(1,246mm)2バンド型
銃身長 39インチ(990mm)3バンド型 33インチ(838mm)2バンド型
ライフリング 初期5条 後期6条
重量3,890g
口径.577口径(14.66mm)
使用弾薬前装式・プリチェット弾(ミニエー弾)、後にエンフィールド・ミニエー弾に変わる。
装弾数単発
発射速度20〜30秒/発
銃口初速267m/s
有効射程900m

高い命中率と1,000ヤードまで延長された射程を実現したエンフィールド銃は、それまで100-300ヤードが精々かつ命中精度も50%程度だった従来のマスケット歩兵の概念を大きく変えてしまった。すなわち、エンフィールド銃を装備した部隊と従来のマスケット銃を装備した部隊が同数で交戦した場合、マスケット銃側は有効射程まで接近するため、数倍の射程と高い精度を持つエンフィールド銃の弾丸に晒されながら行進しなければならなかったことを意味する。(しかも、マスケット銃で武装した部隊は戦列歩兵の陣を組んでミニエー銃で武装した部隊に接近し、戦闘をおこなわなければならないため、敵からすれば格好の的になってしまう。つまりこれは、「どうぞ私を撃ち殺してください。」と言わんばかりの自殺行為を行なってしまう事を意味する。とても恐ろしい。)


ちなみに、もし何もない1,000ヤード四方の平地でマスケット銃兵を相手にした場合でも、マスケット銃が運用されていた当時の主力兵科である戦列歩兵の前進速度は60m/分(イギリス式)であったため、同等の精度となる100ヤードまでの900ヤードを進んで1回射撃するためには13分以上かかるが、エンフィールド銃はその13分の間に30〜40回も射撃できる。


このため、理論上では25人のエンフィールド銃装備の部隊ならば相手の有効射程に入る前にマスケット銃兵1,000人を全滅、あるいは士気低下による戦列崩壊をさせてしまう事ができた。


また、エンフィールド銃がもたらしたもうひとつの変化は、マスケット銃の球弾に比べて複雑な形状の弾丸が高速で回転し、弾体が極度に変形しつつ人体内部へ陥入することで、以前より酷い銃創が作られるという点だった。運よく致命傷を負わずに済んだ兵士達も、汚れた動物性油脂にまみれた弾丸や不潔な野戦病院の環境によって引き起こされる感染症で数日後に死亡してしまうため、当時の医療水準では治療不可能な銃創と感染症のリスクを避けて、手足に被弾した場合であっても不充分な消毒など未発達な野戦外科手術で無造作に切断される事が日常化してしまった。(エグすぎる....。)

酷い銃創を負った兵士の画像(グロ注意)→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83

このため従来の戦列歩兵に拠る野戦では徒に兵力を消耗することになるのだが、しかし当時の用兵者の多くはこの事実を認識せずに戦場に臨んだため、身を以ってエンフィールド銃の威力を経験させられたクリミアのロシア兵やインドのセポイ達の犠牲にも拘わらず、その後の南北戦争や戊辰戦争における戦いでも18世紀的な密集陣形を取らされた多くの兵士がこの銃に晒された。


エンフィールド銃を始めとするミニエー銃の出現による戦力バランス変化の例として、西洋から輸入したライフルドマスケット銃で武装した常勝軍(洋槍隊)によりほぼ同数の戦力を持ちながら瓦解に至った太平天国の乱や、後述の西南戦争などがある。


日本におけるエンフィールド銃

鳥羽街道の幕府軍(慶応四年正月)

日本で最も初期にエンフィールド銃を導入したのは薩摩藩とされ、薩英戦争後の軍制改革で4,300挺を購入したと伝えられており、輸入された当初はその弾丸の構造からミニエー銃(Minié rifle)の一種とされ、イギリス・ミニエーと呼ばれていた。


1865年(慶応元年)に双方で300万もの兵士が戦ったアメリカの南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは市場を求めて太平天国の乱が続いていた中国(上海・香港)へ集まり、幕末の日本にもグラバーに代表される外国商人によって輸入された。

この頃から、フランス製のミニエー銃(fusil modele-1857)と区別するため、「エンピール銃」や、「鳥羽ミニエー(刻印の「Tower」という文字を蘭語読みして、「鳥羽」と呼む。」といった呼び名が付けられ、後に発足した日本陸軍ではエンピール銃の呼称が継承された。


長州など倒幕派諸藩は、エンフィールド銃を1挺あたり15両(現代通貨では1,125,000円、これも間違っていたらごめん。)程度で購入させられていたが、後装式銃器の普及で急速に旧式化したエンフィールド銃の価格は、戊辰戦争の頃から暴落した。同時にスナイドル式銃尾装置によりエンフィールド銃を後装式へ改造する方法が欧米から伝えられ、国内での改造が諸藩や鉄砲鍛冶の間で流行した。


ただし、こうした改造を受けたエンフィールド銃の多くは、側方に設けられたヒンジにより機関部が右方向に開くために、タバコ入れに見立てられ莨嚢式(ろくのうしき)の方式名が与えられたスナイドル銃とは異なり、同時期にベルギーより輸入されていたアルビニー銃などと同様に前方に設けられたヒンジにより機関部が前方向に開く方式が使用された。これは前方開放型のアルビニー式がスナイドル式の側面開放型よりも改造が容易であったからに他ならない。スナイドル銃と区別する意味で前開き型には活罨式(かつあんしき)の方式名が与えられ、より正確には前方枢軸型活罨式と呼ばれた。

新生日本陸軍が発足すると、その歩兵操典に後装式を用いる版が採用された事から、日本陸軍の主力小銃は全て後装式に統一され、スナイドル銃(金属薬莢式)が主力小銃となり、ドライゼ銃(紙製薬莢式)が後方装備とされた。


廃藩置県後に新政府管理へ移管されたエンフィールド銃は、1874年(明治7年)頃から徐々にスナイドル銃への改造作業が始められていたが、1879年(明治10年)に西郷隆盛を首魁とする私学校徒が鹿児島の火薬庫に残されていたエンフィールド銃を強奪して決起して西南戦争が勃発する。

これに対して政府軍はスナイドル銃を主力とする鎮台兵を派遣して戦い、連射速度の違いから西郷軍は緒戦から多くの損害を出して圧倒され、日本最後の内戦は前装式銃の時代とともに終焉した。

貧弱な基盤しか有さず、前装式のエンフィールド銃で戦った西郷軍の鎮圧に莫大な戦費と犠牲を費やした政府は、各地に退蔵されていたエンフィールド銃が不平士族や当時隆盛だった自由民権運動激派に強奪されて同様の反乱が発生する事を恐れ、西南戦争後の1878年(明治11年)から全国各地に残されていたエンフィールド銃を集めてスナイドル銃へ改造する作業を行い、老朽化が激しく改造されずに残された物は軍の射撃訓練用として使用されつつ寿命を迎えて廃棄処分となり、民間へ払下げられる運命を辿った。

民間に払い下げられたエンフィールド銃(ライフリングを削られ、散弾銃にされた物もある。)は、雄猪や熊猟に使える強力な猟銃として長く親しまれ、現代でも地方の蔵の整理中などにエンフィールド銃の残骸が見つかる事が多々ある。


狙撃銃、後装式銃への改良、改造

エンフィールド銃は、旧式化が明らかになると、より強力な銃器としての改良、後装式銃への改造が施された。そのため大量の改造バリエーションが存在する。ここでは、その中でも有名なものを紹介する。

ホウィットワース銃(Whitworth rifle)

ウィットワース銃と南軍シャープシューター(1863)

六角形銃身(hexagon・barrel)を持つ小銃。

クリミア戦争時、当時最新式と言われていたエンフィールド銃には命中精度についての問題が露見していた。(原因は、おそらく弾丸がライフリングにしっかりと密着していなかったからだろう。)

そこで、世界で初めて工業ネジ規格を作った人物として有名なイギリス人「ジョセフ・ホウィットワース(Joseph Whitworth)」が、1854年に特許を取得した六角形銃身(hexagon・barrel)を使用して命中率を高めることが出来る小銃をエンフィールド銃に置き換えられるのではないかと考え、エンフィールド銃に六角形銃身を組み込んだ「ホウィットワース銃」を開発した。


ホウィットワース銃は銃身が六角形(hexagon)である上に、弾丸も六角形であるため、発砲時に弾丸がライフリングにしっかりと密着する。そのため、エンフィールド銃と比較できないほどの射程と命中精度を出すことができた。実際、1857年にホウィットワース小銃とエンフィールド銃と比較するためのトライアルが行われ、 有効射程距離がホウィットワース小銃が2,000ヤードに対して、エンフィールド銃は1,400ヤードという結果になり、ホウィットワース銃がエンフィールド銃より命中率が優れていることがトライアルにおいて証明された。

命中精度に関しては、この画像を見て頂ければ分かると思う。(500ヤードからの射撃で、右がホウィットワース銃で、左がエンフィールド銃。)→https://catahoulachronicles.files.wordpress.com/2015/07/enfield-vs-whitworth.jpg


そして、弾丸もエンフィールド銃、ミニエー銃に比べて小さかった(ミニエー銃の弾丸の口径は約14mm~18mm、ホウィットワース銃は11.5mm)ので、長距離での弾道が安定していた。


しかし、ホウィットワース銃は銃身内の摩耗が激しく汚れが溜まりやすい傾向があり、価格がエンフィールド銃の4倍もコストがかかった。(このため、平時の訓練に際しては紙巻きの円筒弾が使用された。)ホイットワース小銃は狙撃銃として1連隊ずつに68挺交付されたが、歩兵銃として正式に採用されることはなかった。


ちなみにクリミア戦争時に露見されたエンフィールド銃の命中率についての問題だが、これは1859年にエンフィールド銃が使用するプリチェット弾(ミニエー弾)に木製の圧入プラグを加えた圧入拡張型の新型弾を採用することで解決した。


その後は、アメリカに輸入され、南北戦争で南軍が使用(しかし南軍が正規に装備したのは記録では僅か250丁しかなかった。)し、銃器産業の最も大きな供給先であった米国南北戦争の終結によって、他の軍用小銃と同じように1865年にホイットワース小銃の生産が終わった。総生産数は約13,400丁(13,700丁説もあり)で、多くの品は実戦で使用され銃身の摩耗によって多くの銃が廃棄された。


本銃は幕末の日本にも少なからず輸入されており、「六角銃」などと呼ばれ、狙撃銃として運用された。

戊辰戦争時に、庄内藩が外商スネルからホウィットワース銃を10挺、弾薬包を200本分購入した記録があり、価格は1挺あたり38ドルであった。これは当時の通貨に換算すると28両2分(現代通貨では2'120'000円という破格の価格となる。間違ってたらごめん。)という値段だった。


スナイドル銃(Snider-Enfield)

P1853/66 スナイダー エンフィールド

センターファイアー式の実包を使用する後装式銃。

スナイドル銃は、エンフィールド銃の銃身後部が切断され、米国人の「ジェイコブ・スナイダー(Jacob Snider)」が考案した右開きの蝶番式銃尾装置が取り付けられており、前装銃と後装銃の中間に位置する過渡的な構造である。この右開きの構造が煙管で用いられる刻みタバコを入れる莨入(たばこいれ)に類似していた事から、日本語ではこれを意味する莨嚢式(ろくのうしき)とも呼ばれた。

より正確には銃尾開閉型莨嚢式と呼ばれ、スナイドル銃と同様の構造ながらも前方向に開閉する、後装式改造エンフィールド銃(改造エンピール銃)やアルビニー銃(英語版)(Albini-Braendlin rifle)は活罨式(かつあんしき)として明確に区別された。


エンフィールド銃をスナイドル銃に改造する費用は、1878年(明治11年)の日本での見積価格で1丁あたり3円30銭(現代の通貨だと21,930円、間違っていたらごめん。)だったと記録されている。

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スナイドル銃は、エンフィールド銃に比べて弾薬包の気密性や、装填速度で優っていた。事実、スナイドル銃の発射速度は毎秒6秒/発であるため、エンフィールド銃に弾丸を装填する約30秒の間にスナイドル銃を5発も撃つ事ができた。この高い連射性は、戊辰戦争、西南戦争で前装式ライフルを装備した部隊に対して発揮された。


そして、スナイドル銃は後ろから弾丸を装填するので、構えたまま、伏せたまま装填する事ができた。このため、前装式ライフルを装備した兵士に比べ、スナイドル銃を装備した兵士の方が機動性が高かった。


しかし、スナイドル銃は最初期の後装銃だったため、銃身内のライフリングと弾丸の関係性について技術的に未完成なまま製品化されており、改造母体となった前装式のエンフィールド銃よりも命中精度が悪く、下記のような問題点があった。


エンフィールド銃では蜜蝋を塗った紙に包まれた状態で銃身内に装填されていた弾丸が、スナイドル銃では直接ライフリングと摩擦する構造に変更されたため、摩擦熱で溶けた鉛がライフリングに付着して蓄積し、銃身の寿命を短くするという問題があったため、発射後は速やかにブラシを使って銃身内を清掃する必要があった。


スナイドル銃は薬莢内に発射薬が密封されて量を簡単に調整できない弾薬を使うため、射程や威力を増すために発射薬量を増やす・反動を抑えるために薬量を減らす、という前装式で長く使われてきた手法が使えず、熟練した射手ほど使い難いと感じた。


スナイダーの銃尾装置はエンフィールド銃から簡単に改造する事を優先したデザインだったため、撃発機構は管打式から流用されたサイドハンマー式をそのまま流用していた。サイドハンマー式では射撃の際に銃身軸線へ大角度で打撃が与えられて干渉が生じるため、命中精度の向上は期待できなかった(おそらくこれは、同時期に使用されていた後装式銃のプロイセン製ドライゼ銃や、フランス製シャスポー銃と比較して発生した欠点だろう。)


スナイダーの銃尾装置でブリーチ部を蝶番状に結合させているピンに強度が無く、排莢時にブリーチ部を後退させる際などに余分な力が加わって変形し易いデザインだった事もあり、ブリーチが開き難くなる問題があった。

ブリーチ後方から突き出した撃針後部は、撃鉄に叩かれ続けているうちに太く変形して行く。そのまま使用し続けると撃針孔の中で詰まってしまい、ブリーチ先端から飛び出したまま戻らなくなりはじめ、最終的にブリーチを開けなくなってしまう。このため撃針は定期的に交換する必要があった。


この銃も、幕末の日本輸入されており、日本では蘭語読みの「スナイドル銃」、「シナイドル銃」、「エンフィルド・スニーデル銃」、「英国尾栓銃」などなど、多くの呼ばれ方をされ、使用された。しかし、量はそれほど多くなく、廃藩置県後の兵器還納時に兵部省が収管したのも5,140挺に過ぎなかった。これは還納兵器(181,012挺)のうちの2.8%という割合である。

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スナイドル銃にはMK1からMKIII、*(スター)マークを含み5種類のバリエーションがあり、このうちMKIII(5条右回りのスチール製銃身を持ち、遊底の開閉装置を押しボタンやロック式に改良した形式)は、1869年(明治2年)以降に製造が開始されたモデルであり、戊辰戦争に使われたのはそれ以前の形式のものだった。


ウィルソン銃(Wilson Capping Breech-loading Rifle)


トーマス・ウィルソン(Thomas Wilson)が1859年5月28日にパテントを取得した No.1318(Thomas Wilsons British Patent No. 1318)と1860年10月12日にパテントを取得した No.2488(Thomas Wilsons British Patent No. 2488)の後装装置を使った後装施条管打式銃。

元になった銃であるエンフィールド銃と口径も同じでライフリングは初期型と同じ5条となっています。 撃発装置もエンフィールド小銃と同じような、サイド・ロックの雷管外火式である。後装式でも雷管外火式はCapping–Breech-loading systemと呼ばれており、 後装式の構造を除けばエンフィールド小銃とほぼ同じスペックである。 1850年後半から1860年代に前装式から後装式に改造する数多くのシステムが発明されたが、十種類ほどの軍用として採用されたシステム以外は極僅かな例外を除き量産されずウィルソン小銃もその一つとなった。 前装式から後装式に改造された正式採用軍用銃も、その後の専用後装式システムの出現によって完全に消え去った。 この小銃の装填方法の大きな転換期に現れた品々を研究する事は後の(手動)連発銃から現代の自動小銃までの銃砲史を知る上で非常に重要になっている。


ウィルソン ライフルのような後装式は古くは直動鎖せん式と分類された。円柱游底が銃身と一直線に前後運動して薬室を開くもので、閉じてもそのままでは完全に閉鎖しないので、横から楔(くさび=Wedge)状の部品によって留めてある。 この楔(Wedge)部品から横栓銃とも呼ばれた。

ウィルソンは円柱游底の把手が海老の尻尾に似ていることから海老尻尾(英語では ‘Fish tail bolt end')とも呼ばれた。海老尻尾の上部分にはチェッカーリングが入り握り易くなっている。 海老尻尾部分はスプリングのテンションによって遊底を閉じている場合は下方に押し下げられロックされている。


ウィルソン ライフルはエンフィールド銃の後継主力小銃のトライアルに提出された。1864年10月12日付の英軍兵器選定委員会の報告によると、ウィルソン ライフルは提出された47種類の中で、最終トライアルまで進んだ9挺に選ばれた。 最終トライアルには、ウィルソン以外にも、モント・ストーム、グリーン、ウエストリー・リチャーズ(モンキー・テイル)、ジョスリン、シェパード、スナイダーが選ばれました。 最終的にエンフィールド銃からの改良コストが安く、操作が容易で堅牢性に長けたスナイドル銃が次期英国主力小銃となった為、ウィルソン ライフルは英軍には採用されず、少数が製造されただけの世界的に非常に珍しい品となった。


弊社に入荷したウィルソン小銃は全て銃身長が33インチ(84cm)の2バンドで、他の海外に残る数少ない現存個体を確認しても2バンドが多く見られる。

トーマス・ウィルソンはその後のT. Wilson & Co, 社を設立し.50口径のストレート・プル ボルト・アクション ライフルを開発しましたが量産される事はなく、本品のパテントが彼の唯一の成功品と言えるだろう。


この銃も、ほんの僅かだが、幕末の日本に輸入された。


バリエーション

P1853ライフルマスケット(Pettern 1853 Rifle Musket)

三帯型(3バンド)の小銃で、最初に正式化された小銃。ソケット式のスパイク銃剣を装着する。鉸錬の形状の違いから、4つモデルに区分される。


P1856サージェント・ライフル(Pattern 1856 Sergent's rifle Fusil)

嚮導役(きょうどうやく)の下士官が使う短小銃で、2帯型(2バンド)。長小銃と同じスパイク銃剣を装着する。


P1858ショート・ライフル(Prototype Pattern 1856 Short Rifle)

2オビ型短小銃の原型となったもので、軽歩兵部隊や嚮導役下士官が使用した。ヤタガン形銃剣を装着する。


P1858ネーバル・ライフル(Pettern 1858 Naval Rifle)

海軍用の短小銃で2帯型。外見はP1856ショート・ライフルに似ているが、負革留(おいかわどめ)の取り付け位置がサージェント・ライフルと同じ。カトラス形長大な銃剣が装着される。


P1858ショート・ライフル(Pettern 1858 Bar on Band Rifle)

試作の2帯型の小銃で、前床部が銃口近くまで延び、上帯に着剣用のバーが付けられている。ヤタガン形の銃剣が装着される。


P1860ショート・ライフル(Pettern 1860 short rifle)

制式の歩兵用短小銃として採用されたものだが、小改良が加えられていて、ほどなく次のP1861へと更新されることとなった。


P1861ショート・ライフル(Pettern 1861 Short Rifle)

2帯型小銃として最も普及したもの。幕末の日本に輸入されたエンフィールド銃のほとんどが、この年式のものだった。他の短小銃は照尺が1,100ヤード(約1,005.8m)であったのに対し、このP1861短小銃は1,250ヤード(約1,143m)になっている。初期の製品は床尾板、用心金、冠金が真鍮製だったが、後期には鉄製となった。


P1853アーティラリー・カービン(Pettern 1853 Royal Artillery Carbine)

短寸の2帯型砲兵銃である。リーフサイト式の簡易照尺が取り付けられている。銃剣は、真鍮柄のヤタガン形である。


P1861アーティラリー・カービン(Pettern1861 Royal Artillery Carbine)

上のP1853砲兵銃と外見は同じだが、ライフリングが5条右回りとなり、600ヤード(約548.6m)の遊動照尺が取り付けられている。銃剣は歩兵と同一のヤタガン型が装着される。


P1856カービン(Pettern1861 Cavalry Carbine)

騎兵用に制定されたエンフィールド騎銃である。銃の左側面に取り付けられた担銃環(たんじゅうかん)へ担帯のフックを掛けて、肩から斜めに吊り下げる。照尺は簡易なリーフサイトである。


P1861カービン(Pettern 1861 Cavalry Carbine)

上のP1856騎銃と外見は変わらないが、600ヤード(約548.6m)の遊動照尺と、照尺を保護するための皮カバーアタッチメントが取り付けられている。

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