概要
16世紀中頃、度重なる権力争いの末に室町幕府の実権は三好長慶が握るところとなった。その長慶率いる三好家中において、重鎮として活躍していた武将が三好長逸・三好宗渭(政勝)(※)・岩成友通の三人である。
(※ 一般には「三好政康」の名で広く知られており、Pixiv百科事典でもそちらの名義で記事が作成されているが、昨今の研究においてこれは誤謬である事、また同時代の史料から「政勝」「政生」を実名としていた事が明らかにされている)
永禄7年(1564年)に長慶が没すると、後を継いだ三好義継が若年であった事から、その後見役として松永久秀と共に3人も台頭し、三好家中での主導権を掌握。さらに時の幕府将軍で、将軍親政を強く志向していた足利義輝との対立から、翌永禄8年(1565年)には久秀の息子・久通と組んで将軍邸を襲撃、義輝を暗殺する「永禄の変」を起こした。
しかしこの後、久秀とは義輝亡き後の将軍後継や、畿内の主導権を巡って対立関係に転じ、三好家中はこの両者を中心に分裂状態に陥った。三人衆は義輝亡き後の14代将軍に足利義栄を擁立すると共に、阿波三好氏の重臣・篠原長房や、大和の筒井順慶らの助力も得て久秀の排除に当たった。一方の久秀も河内の畠山高政、それに義輝の弟である一乗院覚慶(後の足利義昭)やその支持勢力と連携しつつ、後には三人衆と主君・三好義継の間の対立に乗じて義継とも結託、三人衆に抗し続けた。
このように内紛こそ続いてはいたものの、この頃が彼らの権勢の絶頂であった事も確かで、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの『日本史』の中で、三人衆と久秀を指していると思われる「天下の執政4人」という言葉が出てくる。
およそ3年に及んだ三人衆と久秀の抗争は、久秀側の根強い抵抗もあったものの三人衆優位の内に推移していたが、そうした状況も足利義昭を擁した織田信長の上洛によって大きく一変する事となる。この時信長と同盟関係にあった久秀と義継が、義昭・信長より立場の保全を確約された一方、信長に反発した三人衆の勢力は畿内より駆逐され、抵抗空しく衰退の一途を辿る事となったのである。
とはいえ、その後も長逸を中心とする阿波の三好氏の勢力が、本圀寺の変や野田・福島の戦いなどで度々義昭・信長を脅かし、後には義継・久秀とも和解し信長包囲網の一翼も担ったが、天正年間に入ると友通は戦死し、これと前後して長逸も消息不明に陥った。宗渭も永禄年間の末頃には既にこの世の人ではなく(生存説もあるがあくまで巷説の域を出ない)、こうして一時は三好家中、ひいてはその政権の中核を担っていた三好三人衆の命脈もここに途絶えた。
歴史的意義
歴史的には割と目立つ役回りを演じていたのだが、とにかく細かい資料が少なく、個々のキャラが弱い。生年が分かっている者は誰一人おらず、没年も友通以外は不明。出自も不明瞭で、三好姓を名乗っていた二人ですら父親候補が二人以上おり、友通に至ってはそもそもどういった経緯で三好氏に登用されたのかが分からない、という有様である。
一時的とはいえ中央の権力を牛耳っていたため、戦国期を題材にした作品での登場頻度はかなり多い。とはいえその扱いも名前が出てくるだけだったり、あるいは適当にまとめられるか単なるやられ役だったりなど、かなりぞんざいに扱われるのが常である。そして、必ず3人セットでないと知名度は低い。
強いて言えば宗渭がモデルになった(とされる)三好清海入道が、真田十勇士の1人として活躍している程度である。もちろんそれらの作品で三好三人衆に言及される事は殆どない。
三好三人衆(戦国BASARAシリーズ)
メイン画像がBASARAに登場する三人衆。三兄弟らしい。2つ名は【必殺非業】。
声優はそれぞれ長男が細谷佳正、次男が千々和竜策、三男が石上裕一。
主君である松永久秀の命令で時に略奪を、時に破壊を行う。
そのため松永軍の死神部隊として恐れられている。
戦極姫シリーズ
3でのみ三好家シナリオの主要人物として登場。
まとめ役であり温厚な長逸、エロいサディストな政康、物静かで腹黒な友通というキャラクターになっている。性格的にバラバラで仲が良いようにも見えないが、何故かバランスは取れているようで、政治的には三人揃って行動する。久秀ほどの非情さは無いが、道理よりも利権を優先し、勝ち目の良い方に味方するなど全体的に小物で食えない性格である。
関連タグ
日本史 戦国時代 安土桃山時代 戦国武将 室町幕府 複数名で語られる武将
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