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村上義清の編集履歴

2021-05-14 07:41:57 バージョン

村上義清

むらかみよしきよ

信濃国の豪族にして、武田信玄を二度破ったの北信の雄。

概要

河内源氏庶流・信濃村上氏の流れを汲む村上顕国の子という。

生没:文亀元年3月11日(1501年3月29日)~元亀4年1月1日(1573年2月3日)

幼名:武王丸

官途名:周防守など


生涯

北信濃の雄

居城・葛尾城を中心に信濃の東部から北部を支配下において、村上氏の最盛期を築いた。


しかし、佐久郡を巡り義清は隣国・甲斐の武田信虎武田信玄の父)と激しい抗争を続けていたが、佐久郡は最終的に武田氏の支配下となってしまう。


天文10年(1541) 義清は一転して今まで戦っていた信虎やその娘婿・諏訪頼重と連合して、小県(ちいさがた)郡を治めていた海野一族を攻めて勝利し、海野幸義(海野氏嫡男)を戦死させた。当主棟綱は真田幸隆(棟綱の縁戚)と共に上州の上杉氏を頼って亡命し、小県郡は義清の支配下となり、村上氏は東信濃・北信濃において最大の勢力となった。


上田原の戦い

海野平の合戦から帰国した武田信虎は、武田晴信(信玄)によって駿河へ追放され、晴信が家督を相続。晴信は信虎時代の外交路線を破棄し、諏訪や村上との対決路線を選択。


天文11年(1542)、晴信は妹婿である頼重を攻め滅ぼし、諏訪郡一帯を支配下に置いたのを手始めに、上伊那郡や佐久郡に侵攻。天文16年(1547)佐久郡で最後まで抵抗した志賀城主・笠原清繁も討ち死にし、城は陥落。


佐久郡が晴信の支配下になったことで、隣接する小県郡を領地とする村上義清と対決することになり、天文17年(1548)2月、上田原(長野県上田市)において義清と晴信は激突。

武田軍は7000、村上軍は5000の兵を率いていたとされ、兵力では武田軍が優っていたが、上田原は義清の葛尾城からも10キロほどに位置し、地の利は村上軍にあった。


序盤は武田軍に押されるが武田軍先鋒の板垣信方が油断したところを見計らい、村上軍は反撃を開始。


武田軍は宿老の板垣信方・甘利虎泰を始め有力な武将が討死。さらに義清本人も晴信の本陣に突撃してきたという言い伝えもあり晴信自身も負傷してしまう。戦いは村上軍の勝利となり、日の出の勢いだった晴信にとっては初めての敗戦となった。


上田原での義清の勝利は、武田氏の支配下にあった信濃の国人を勇気づけ、義清を中心に結束、各地で反撃に出る。義清も信濃守護・小笠原長時と結び諏訪下社を占領するなど攻勢に出た。

砥石崩れ

しかし晴信は信濃守護・小笠原長時を塩尻峠にて撃破。余勢を駆って、天文19年(1550)7月小笠原領に侵攻、長時は本拠地・林城(長野県松本市)から逃亡し信濃小笠原氏は滅亡。


小笠原氏を破ったことで、信濃の中部・南部を支配下においた晴信は、村上領の小県郡に進出し、村上義清の重要拠点である砥石城(戸石城)を攻めた。


9月に入り信玄は城を包囲して攻撃するが、砥石城は小さな城ながら崖に囲まれた守りの堅い山城で簡単に落ちず村上軍の激しい抵抗に遭う。兵力では圧倒的に優勢な武田軍は20日間に渡り攻撃するが、城は落ちなかった。


この時義清は高井郡の高梨政頼と対立し、出陣していたが、義清は高梨氏と和睦し、葛尾城から軍勢を率いて救援に駆けつけ武田軍を挟み撃ちにした。形勢不利を悟った晴信は退却を命じるが、村上軍の急襲に遭い武田軍は大打撃を受け1000人近い死傷者を出して敗北。宿将・横田高松は討死し勇将・小山田信有(信茂の父)もこの時の負傷が元で早世。晴信自身も影武者を身代わりにようやく窮地を脱したと言われている。


ちなみに晴信が再度義清に敗れたこの戦いは砥石崩れと呼ばれ、晴信(信玄)の生涯の中でも最大の負け戦とされる。


北信濃を失う

砥石合戦(砥石崩れ)に勝利した義清は小笠原長時と連合して、松本平(松本盆地)にも出兵。しかし天文20年(1551)、晴信の将となっていた真田幸隆による内部工作と奇襲で砥石城を乗っ取られてしまう。


砥石城を手に入れたことで一気に攻勢に出た武田軍により天文22年(1553)4月、村上氏側の諸城が陥落。孤立した義清は本拠地・葛尾城から逃れ、越後の長尾景虎(上杉謙信)に支援を依頼した。


景虎は義清に援軍を送り、義清は葛尾城を奪い返して塩田城で再起を図った。しかし、天文22年(1553)8月、周囲の城は次々に落とされ、塩田城も落城。義清は謙信を頼って越後に逃れた。

川中島の戦い~最後

北信濃が武田軍の支配下となり、村上・高梨・須田・岩井などの信濃国人衆に救援を依頼された景虎は、信濃に出陣し川中島の戦いが勃発。


義清も景虎改め上杉政虎の配下として、永禄4年(1561)第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)に出陣。61歳で参戦した義清は、信玄の弟・武田信繁を討ち取ったという伝承がある。


その後も上杉家に留まり信濃衆筆頭としての待遇を受けるが、故郷への帰国は叶わず元亀4年(1573)1月、越後・根知城(異説あり)にて死去。

その後の村上氏

義清の後は嫡子・村上国清が後を継ぐが、国清は謙信に気に入られ養子に迎えられ山浦上杉氏を継いでいる。国清は御館の乱上杉景虎方の重鎮・上杉景信を討ち上杉景勝方の勝利に貢献している。景勝の一字を授かり山浦景国と名乗り一時期、海津城(長野市松代町)城代を務めたが、叛意を疑われ根知に戻され家臣団も解体。国清が1592年に死去した後は公家の猪熊光則が山浦家を継承する。しかし、光則はキリシタンだったために1654年に景勝の孫・上杉綱勝の命で処刑され山浦家は絶家となり義清以来の村上(山浦)の系図は絶えてしまった。


一方、丹羽長秀豊臣秀吉徳川家康に仕え越後村上初代藩主になった村上義明は義清の孫を称している。ただし義明については義清の外孫、村上水軍で有名な伊予村上氏出身説もあり定かではない。ちなみにこちらの村上氏も二代藩主・忠勝の代に改易されている。


人物

  • 勇猛で長槍の名手とされ一説には斎藤道三に先駆けて長槍足軽戦法を創始したともされる。
  • 信玄を二度破った武将」として江戸時代に有名になったが、実際の活躍を語る文書は意外と少ない。しかし、あの信玄に対し臆することなく立ち向かった義清は、故郷で今も語り継がれており義清の地元である長野県埴科郡坂城町には、義清の武勇や功績を讃える史跡が残っている。

ドラマなどの演者

信長の野望シリーズ

覇王伝から登場。天翔記から蒼天録に掛けては上條恒彦に寄せたいかついグラフィックになっていた。


関連項目

武田信玄 武田信繁 上杉謙信 真田幸隆 川中島の戦い

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