概要
和歌山県出身の植物学者で、「粘菌」の研究で知られる人物であるが、熊楠の学風は「ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろう」とする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼荼羅のような知識の網が産まれた。
その知識の網は非常に膨大な範囲に広がり、現在では民俗学者、博物学者(ナチュラリスト)としての知名度が高い(この記事の親記事も民俗学である)。また専門の植物学分野では顕花植物、菌類、藻類の研究にも打ち込んだ。しかし、粘菌以外の分野に関してはほとんど論文を発表しておらず、学者として公式に認められた業績はほぼ植物学の範疇に収まる。また熊楠が活動したのは学問分野としての博物学が既に解体された時代である。
南米各地を放浪し、イギリスへ留学。東洋人なので何度も差別を受けたり、当人の喧嘩っ早い性格から様々な問題を起こした一方、イギリスの識者からはその才能を高く評価された。また亡命中だった孫文と知り合い、意気投合する。
1900年に帰国して郷里の田辺市に定住。研究の傍ら、神社合祀令に反対運動を起こし、鎮守の森を破壊から守ろうとした。1929年に行幸した昭和天皇を神島で案内を務め、お召艦『長門』の艦上にて粘菌や海洋生物について新講。天皇は熊楠に大変な好印象を持たれ、後に彼を偲んで「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という御歌を送った。天皇の作った歌に民間人がフルネームで登場するのはかなり珍しい。
妖怪の研究もしており、水木しげるや荒俣宏らも熊楠を題材とした著書を出している。
研究者として大学その他の研究機関に籍を置くことはなく、生涯在野の好事家として過ごし、作り酒屋を営む弟の援助で食べていた(要は田舎のニートである)。
奇行
南方熊楠は卓越した学識とは裏腹に奇行が多く、大酒飲みで極度の癇癪持ちでもあった。
その奇行のいくつかを述べる。
・多汗症だったので裸で過ごすことが多かった。褌一丁で野山へ採取に行き、農村の娘を驚かせたこともある。ついた渾名が「てんぎゃん(天狗)」。
・昼寝中に来客があり、「熊楠はいないよ」と居留守を使ったが、足が玄関から見えていたため即バレる。客人が「本当ですか?」と尋ねると「当人が言うんだから本当だよ」と答えた。
・自由自在に嘔吐できる体質で、喧嘩の切り札に使った。
・イギリス時代、知人に贈られた法衣と袈裟を纏って大英博物館に通ったことがある。
・昭和天皇への新講の際、多数の標本をなぜかキャラメルの空き箱に入れて献上した。フタが開けやすかったため、もしくはボール紙製で軽かったためと云われている。ただし天皇が熊楠に好感を抱いたのは上記の通りで、講義の時間は25分だったが天皇の希望で5分延長された。侍従も後に「奇人変人の類と聞いて心配していたが、会ってみたら本当に紳士的な人だった」と語っている。また熊楠の方も帰宅後、恩賜の菓子を妻に持たせて記念撮影をしたり、知人に菓子を配ったりと喜んでいた。
・幻覚や幽体離脱を経験しており、死後に自分の脳を調べるように言い遺した。そのため脳は大阪大学医学部に保存されており、MRI検査の結果海馬の萎縮が明らかになった。