概要
所属 | 横浜DeNAベイスターズ→タンパベイ・レイズ→ロサンゼルス・ドジャース→ピッツバーグ・パイレーツ |
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出身 | 和歌山県橋本市 |
生年月日 | 1991年11月26日 |
身長・体重 | 185cm、97kg |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 2009年ドラフト1位 |
来歴
プロ入り前
中学時代には「堺ビッグボーイズ」に所属し4番として30本塁打を記録。早くからスラッガーとして注目され、高校進学の際には関西の強豪校の推薦も受けたが、松坂大輔への憧れから神奈川県の横浜高校に進学。その無類の長打力を買われ、1年生時から4番を任された。
2年生夏の全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝の聖光学院戦にて満塁弾を含む2打席連続本塁打・1試合個人最多タイの8打点を挙げ、最終的に打率.526・3本塁打・14打点を記録するなど4強入りに貢献。
3年生春に行われた花巻東(岩手県)との練習試合では、現埼玉西武ライオンズの菊池雄星からソロ本塁打も打っている。
プロ入り後
2009年のドラフト会議で横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)から1位指名を受け入団。背番号は「55」(現在は「25」)。背番号とその長打力から「ハマのゴジラ」と呼ばれた。
ルーキーイヤーの2010年には早くもプロ初本塁打を記録。翌2011年には二軍で本塁打王・一軍でも8本塁打と結果を残す。
2012年からチームの監督を務めた中畑清も期待を寄せる中、同年はホームラン10本を記録しプロ入り初の規定打席入りを果たした。しかし、打率は規定打席に達した打者の内では最低であった。
2013年シーズンは前年の雪辱を果たすかに思われたが、怪我が重なり出場23試合、1本塁打
に終わる。さらにシーズンオフのフェニックスリーグでのプレイを見た中畑監督により「危機感がない」と秋季キャンプのメンバーから外されてしまう。
これにより奮起した2014年シーズンは主力打者として定着。三塁手から外野手(左翼手)にコンバートされ111試合に出場、打率.300、22本塁打、77打点、得点圏打率は両リーグトップの.416と好成績を残した。
2015年シーズンからは4番打者として出場を続けており、2016年には史上初の3試合連続マルチ本塁打(1試合に2本以上の本塁打)を記録し、本塁打王・打点王の2冠に輝くなど、リーグを代表する打者となった。
2019年シーズン終了後、ポスティングシステムによりMLBタンパベイ・レイズと契約した。
しかし速球を打てない弱点を克服できず、2020年はレイズがポストシーズンを勝ち上がっていくに連れて出場機会が減少。翌2021年は前年以上に打撃不振が深刻になり、5月13日にDFAとなりメジャー登録枠から外され、5月15日にトレードでのロサンゼルス・ドジャース入りが発表された。故障が重なったとは言えドジャースでも25打数3安打(打率.125)と全く適応出来ず、7月にウェイバーにかけられた末に改めてマイナー契約でドジャース傘下へ配属された。8月にはドジャースからもDFAとされたが、直後にピッツバーグ・パイレーツと契約した。パイレーツ移籍後は代打として日本人選手最多となるホームランを記録している。
ベイスターズ時代は野球日本代表の侍ジャパンメンバーの常連でもあった。
プレースタイル
かつては長打狙いのスイングで一発のパワーはあるがミート力に乏しく三振も多かったが、2014年以降は打率も継続して3割以上を記録している。
チャンスにも強く、2016年の得点圏打率は.393でリーグトップである。
体勢を崩されながらも横浜スタジアムのライトスタンド最上段の看板までボールを運ぶ桁違いのパワーの持ち主であり、2016年の全43本塁打のうち13本が逆方向への打球である。
ただ、球速が150km/hを超えるファストボールを打てないと言われており、それを話題にしたYouTubeの動画も存在する。この弱点はNPB時代から指摘されていたことだったが、渡米後には更に深刻化してしまい、結果としてレイズから戦力外にされる原因となった。
守備については評価が別れるが、守備指標の一つであるUZR(リーグにおける同じ守備位置の平均的な選手が守る場合に比べて、守備でどれだけの失点を防いだかを示す)では2014年に5.2、2016年に3.5と平均的な数値を残している(ただし2015年は-10.6と悪い)。また2015年には補殺でリーグトップ(10)を記録している。